スタッフのつぶやき

2020.10.24

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑰

カスタネットの女王 ― 最も単純な楽器が世界一輝く時 ―

 50数年前、保育園のお遊戯会で器楽合奏をしたことを覚えている。カスタネット、タンバリン、トライアングルに大太鼓。その他大勢に押しやられる楽器は、決まって一番単純なカスタネットだ。園児の手のひらサイズ、赤と青のシンプルな楽器をリズムに合わせて叩くだけ。

 だが、どんな世界にも超一流を極めた人はいる。昨年、豊田市コンサートホールでは、世界一単純な楽器を世界一華のある楽器にしたスペインが誇るカスタネットの女王、ルセロ・テナさんが初来日コンサートを行った。マドリードで彼女が出演するコンサートには、必ずといっていいほどスペイン王妃が聴きに来ると言われるほどの存在だ。共演のお相手は、ハープ界の貴公子グザヴィエ・ドゥ・メストレだが、カスタネットの女王を共演者に選んだセンスと目の付け所も素晴らしい。

 曲目は、アルベニスやグラナドス、タレガ、ファリャなどオール・スペイン作曲家によるもので、ピアノ曲・ギター曲、民謡・舞曲などの原曲をアレンジした作品群が一段と魅力を放つ。完全に虜にされてしまうハープの超絶技巧に、神業の如くカスタネットが絡み合い、まるで2人で歌っているようだった。圧巻の演奏に客席はスタンディング状態となり、終演後も長い余韻が続いた。

 日の目を見ない楽器がキラキラの輝きに満ちた瞬間。それは楽器に限らず、どんな世界にも必ずあることだと思う。心が温かくなる瞬間だ。

2020.10.13

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑯

うまい・へた

 落語の大名人、五代目・古今亭志ん生が次のような言葉を残している。

 「人の噺を聞いて、自分より下手だと思ったら、自分と同じくらいのレベル。自分と同じくらいだと思ったら、自分より上手い。自分より上手いと思ったら、自分よりその人の方がはるかに上手い。」名言である。人間というものがいかに自分を過大評価するかということを戒めている。

 晩年の志ん生は、酔っぱらって高座に上がり、話しながら眠ってしまったという逸話もあり、天性の自由奔放な話芸の持ち主のように思えるが、実は自分の芸に対してこのように厳しい見方をしていたということに驚いた。

 その志ん生の次男である古今亭志ん朝に、一度だけ豊田市能楽堂で落語を演じてもらったことがある。ネタは「試し酒」で、酒に一家言ある主人と客が、大酒飲みの男を連れてきて五升の酒が飲めるかどうか賭けをする噺だ。酒飲み男が「少し外で考えさせてくれ」と言って出て行き、しばらくして戻ると一升入りの盃で五升の酒を飲み干してみせたので、賭けに負けた主人が「外に行って、何か特別な薬か、おまじないでもしてきたのか?」と尋ねると、「今まで五升なんて酒を飲んだことがないから、試しに酒屋で五升飲んできた」というオチである。

 いかにも江戸っ子らしく、明るくきれいにテンポよく、そして粋で、もう絶品といえる見事な一番だった。上演中は立て板に水のごとき志ん朝の噺に引き込まれ、自分も一緒に酒を飲んでいるような気分になる。終わってから、上手かったなあとしみじみ感じ入ったものだが、あらためて考えてみると、本当に上手いという時は、聴いている間は「うまい」とか「へた」とかいうことを意識せず、そういう概念すらも忘れてしまうのではないか。無理なく自然に芸の中に同居して時を忘れ、気がついたら、ああ実は上手かったんだなあとなる。もっとも、その域に達するのは、並大抵のことではないだろうが。

(あかんちょう)

 

2020.09.26

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑮

失神する演奏者

 芸能の根本は、神仏への奉納である。

 神々が宿る島、と言われるインドネシア・バリ島に伝わる本場のガムラン音楽と舞踊をコンサートホールで上演したことがある。演奏団体はバリ島西部の村を本拠地とするグループだが、なんと驚いたことに、演奏者が演奏中のヴァイブレーショで陶酔・失神するという。その失神した奏者をステージから引っ張り込んでくる要員として、我々スタッフもいつもの倍以上の人員を舞台袖に配置してほしいと頼まれ、スタンバイした。つまり、元々は有名な“ケチャ”同様、神へのお伺いを立てる際の媒介者として、入神状態に導くために奏でられる音楽なのであろう。

 いざ本番。大きなものは長さ3m、直径20cm以上にもなる巨大な竹製の打楽器で、「大地の響き」と言われ、まるで地面がうねるような桁外れの音圧と重低音が鳴り響く。インドネシアがオランダの植民地として統治されていた時代は、竹が武器になるという理由で禁止されており、その後久しく途絶えていたが、1971年に見事に復興させ、今や世界中でバリ島の民族楽器として広く知られている。

 白眉は、この楽器によるアンサンブルが2組に分かれ、競うように演奏される部分だが、やがて強烈な音の波動になっていき、演奏バトルをする最中にトランス状態から本当に1人2人と次々に失神していく。失神した奏者をすぐにそのまま舞台袖に引っ張り込み、すかさず水をかけて頬を叩く。目を覚ました奏者は再びまたステージに戻って演奏するという具合だ。

 当然お客さんの中にも何が起こったのかと心配する人も出てきたが、さすがにお客さんで失神される方はいなかった。後にも先にも、コンサート中に演奏者が失神するということはこの時しかないが、神に捧げる音楽の真骨頂を見た貴重な経験である。それにしても、「失神」という字は神を失うと書くのは不思議だ。

(あかんちょう)

2020.09.09

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑭

ワキ役の美学

 親バカな話で恐縮だが、息子が小学校6年生の時、文化祭の劇で「はだしのゲン」を上演することになった。主人公ゲンの役は数人の子が交代で演じる。息子は本人の期待に反して、原爆現場から他人を押し退けて自分だけ助かろうとする悪役的な脇役をすることになった。意気消沈している息子に声をかけた。「劇というものは主役だけでは成り立たない。脇役の演技次第で劇全体が引き締まるのだ。脇役に徹して、徹底的な悪役を演じたらどうか。」。一応腹に落ちた息子、いざ本番。その悪役ぶりはなかなか迫真の演技で、先生方にも感心されたようだった。

 能の脇役をワキ方という。この場合、主役に対しての単なる脇役ではない。ワキの存在は、副次的な役割を担う意味でなく、能という演劇の重要なバランスをとる役なのである。ワキ方の安田登氏の説明によれば、ワキとは、「わきの下」という言葉もある通り、「横(の部分)」をさし、着物で言えば脇の縫い目、つまり前の部分と後ろの部分を「分ける」ところだから「ワキ」とのこと。古語で言えば、ワキとは「分ける」人であり、「分からせる」人だということだ。

 能のワキは、ほとんどの場合曲の最初に登場する。緊迫した静かなワキの登場で舞台の空気が整い、その曲の場面設定を行うという最も重要な役割を持つ。さらにもう一つの役割は、主役(能ではシテという)が面をつけた女や武将の霊であるのに対して、ワキは絶対に面をつけず、現実の人間であり、したがって観客の代表としての意味も持つのである。役としての優雅さや抒情味はなく、地味に存在して曲によっては2時間以上も静止していることも少なくない。だが、能ではその日の舞台の成功は、このワキの存在感に左右されるといっても言い過ぎではないだろう。じっと動かないままでも、主役(シテ)との均衡を保つ貴重な一本線が張られているからこそ、見応えのある能が一番成立する。そこにワキの美学がある。

 ワキ役は実にカッコいいのだ。

(あかんちょう)

2020.08.27

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑬

お昼寝とクラシック音楽

 50年以上前、保育園に通っていた頃、夏の時季にはお昼寝の時間があった。

 お昼寝の始まりは、いつもシューマンのピアノ曲「トロイメライ」が流れた。そして、お目覚めの曲は、ドヴォルザークのピアノ曲「ユーモレスク」ヴァイオリン版だった。だから、今でも「トロイメライ」を聴くと自然に眠くなってくる。広い部屋に園児たちは寝て、保母さんたちがなかなか眠れない子の胸を優しくトントン叩いていた情景が記憶の彼方に残っている。

 考えてみれば、これが自分の記憶にある人生で最初に触れたクラシック音楽だと思うが、幼児の頃に身体に馴染んだ音楽は、長い年月を経てもその記憶を呼び覚ますものらしい。

 「トロイメライ」はシューマンが作曲した『子供の情景』という全13曲から構成されたピアノ曲集の第7曲目で、特に有名だ。トロイメライの意味は〈夢〉〈夢想〉だから、お昼寝にはぴったりだったのだ。美しくロマンティックな曲調が、いかにもドイツ・ロマン派の作品である。一方、「ユーモレスク」もドヴォルザークの『8つのユーモレスク』というピアノ曲集の同じ7曲目の作品だ。この曲は、ドヴォルザークが晩年、病に伏せていた時に、お見舞いに訪れた世界的ヴァイオリニストのクライスラーが、彼の部屋の楽譜の山からこの曲を発見。編曲して演奏したものが大変な人気を博したというエピソードがある。

 いつか、クラシック超名曲集「トロイメライからユーモレスクへ」という企画をやってみようか。ただし、客席はお昼寝タイムになるかもしれないが。

(あかんちょう)

2020.08.14

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑫

84歳の「愛のあいさつ」

 80歳を超えて、豊田市コンサートホールで3回リサイタルを行ったピアニストといえば、アルド・チッコリーニである。2010年、2012年、そして2014年を最後に、翌年89歳で尊いご生涯を終えられた。そのチッコリーニの最初のリサイタルで、驚くべき光景を目の当たりにした。

 プログラムのメインはムソルグスキーの「展覧会の絵」で、実に多彩な音色、輝かしい響きに会場は興奮のるつぼと化したが、さらに白眉はその後のアンコールだった。曲は、意表をついてエルガーの「愛のあいさつ」だ。この曲は、エルガーが婚約者のアリスに婚約の記念に贈ったという素敵なエピソードで有名だが、84歳の巨匠が奏でるゆっくりとした「愛のあいさつ」は、途方もなく甘く優しく、慈愛に満ちた演奏で、勝手に涙があふれてきた。

 ふと気がついて客席を見渡すと、夫婦やカップルと思われる二人組のお客様方が、あちらこちらで明らかに寄り添ったり、そっと手を握り合ったりしているのだ。それが普通に自然になされていた。長年コンサートホールに勤めていて、こんなことは初めての経験であった。84歳の巨匠による「愛のあいさつ」は、その場に居合わせた全ての人々を幸せにした大切なひとときであった。

 もちろん、私も手を握りたかったが、その場に相手がいなかったのはやむを得まい。

(あかんちょう)

2020.07.28

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑪

明るく歌えば歌うほど 悲しみが深くなる歌

 現在、NHKで放送されている連続テレビ小説『エール』の主人公モデルは作曲家の古関裕而だが、その作品に「とんがり帽子」という曲がある。私は、涙なくしてこの曲を聴くことができない。

 「とんがり帽子」は、戦後まもなく、古関が劇作家の菊田一夫と組んで制作されたラジオ・ドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌である。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた青年が孤児たちと一緒に信州の里山で共同生活を送り、明るく強く生きていく様子を描いたドラマで、大人子どもを問わず、多くの人の共感を呼んで大ヒットとなった。

 歌の出だしは、晴れわたった空と緑の丘をイメージさせる明るいメロディーなのだが、2番・3番と最後まで聴いていくと戦災孤児の歌だとわかり、思わず涙がこぼれてしまう。しかも、ドラマでは孤児たちが平然と明るく歌っている設定なのでたまらない。<鐘が鳴りますキンコンカン 鳴る鳴る鐘は父母の 元気でいろよという声よ> <おいらはかえる屋根の下 父さん母さんいないけど 丘のあの窓おいらの家よ> <昨日にまさる今日よりも あしたはもっとしあわせに みんな仲よくおやすみなさい>。歌い手が明るい声で元気よく歌えば歌うほど、悲しみが深くなり、どうしようもない感動に襲われる。

 明るい曲は、実は底知れぬ深い悲しみが作っているのである。

(あかんちょう)

2020.07.09

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑩

三十三間堂はパイプオルガン?

 豊田市コンサートホールのパイプオルガンは、米国のジョン・ブランボー社の製作だが、代表のブランボーさんは御年80ン歳の頑固な職人である。頭の中はオルガンのことでいっぱい。何を見ても聞いてもオルガンに結びついてしまう。豊田市のオルガン製作中における面白いエピソードを紹介しよう。

 ある時、休日を利用して京都観光に出かけた。有名寺院やその庭園を見て回る中に、三十三間堂があった。その観音堂に足を踏み入れた瞬間、ジョンさんは一言、「これはまさにパイプオルガンだ!」と大声を出して感激したという。あの有名な金色に輝く千体の千手観音像が、パイプオルガンに並ぶパイプ群に見えたのだ(笑)。千手観音像をパイプオルガンに例える人を初めて見た。

 そのジョンさんがこだわって製作した豊田市コンサートホールのオルガンは、16~17世紀のオランダと北ドイツの様式を丹念に調査したうえで、それを単にコピーするのではなく、現代の私たちが考えうる最高のオルガンを制作するということをモットーに作られたものである。ある意味では、非常に合理的な作品ともいえよう。その結果、世界中から来館される多くのオルガニストが大絶賛する音色と響きをもつ、今やパイプオルガンは豊田市の宝物なのだ。

 宝物を眺めているうちに、だんだん三十三間堂に見えてきた。

(あかんちょう)

2020.06.30

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑨

草木の精

 「自然を大切にしましょう」というのは、上から目線ではないだろうか。

 自然が先か人間が先か。地球が誕生したのが約46億年前、最初の生命が海中に誕生したのが38億年前、その後、陸上に植物が出現したのが5億年前と言われている。人類の誕生は恐竜時代が過ぎたさらに後で、約6500万年前にようやく霊長類として出現したのが始まりだ。自然に比べれば人間の歴史は、ほんの一瞬ともいえる。むしろ、自然の中から自然に支えられて生きてきたと言ってもいいくらいで、自然と共生していくのが本来だろう。

 能には、草木などの自然が植物の精として登場する演目が結構ある。「西行桜」「遊行柳」「杜若」「半蔀」「東北」・・・。「西行桜」は西行と歌の問答をかわした老桜の精が登場し、「遊行柳」は西行に歌を詠まれた老柳の精が舞を舞う。「杜若」は杜若の花の精、「半蔀」は夕顔の花の精、「東北」は梅の精、「六浦」は楓の精。「胡蝶」は梅の花に戯れる蝶の精だ。いずれも草木や虫の精が美しい女性や年老いた男の姿で登場し、ある時は優雅に、ある時は閑雅に舞を舞う。昔から能では自然と人間が共に生きていたのだ。

 今、静かになっている能舞台。早く能を上演して、草木の精に遇いたいものである。

(あかんちょう)

2020.06.17

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑧

人種差別と音楽

 アメリカが大変なことになっている。いや、アメリカだけでなく欧州にも拡大した。コロナではない。白人の警察官がアフリカ系米国人を拘束して死なせてしまった事件に端を発して、人種差別に対する抗議デモが世界中に広がっている。コロナの時代、世界は分断の時代に突入してしまった。

 アメリカでの黒人への暴力は今に始まったことではないが、これだけ大規模な抗議デモは初めてで、しかも全世界で平和的なデモが動員数を増やし続けているらしい。この先の未来、世界はどこに向かっていくのか。本来アメリカは多様な民族の国なのに、まるで部族間の対立のようだ。人種による分断や憎悪は、どうしたらのりこえていけるのだろうか。

 音楽はそういう「分断」に対して、大きく世界を包み込んできた。例えば、ベートーヴェンが作曲した第九。ゲーテとともにドイツを代表する文豪シラーが26歳の時に書いた詩「歓喜に寄す」に感動したベートーヴェンが、この詩に曲をつけ、全人類が強調して実現すべき平和を理想として高らかに歌う壮大な世界を描いた。まさに今ほど、「抱き合え、何百万の人々よ」と歌い上げられる神・宇宙・自然・人類の全ての賛歌が必要な時はない。

 ただ、残念ながらコロナの影響で、今年の年末の第九は公演中止かもしれないが。

(あかんちょう)

2020.05.30

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑦

散歩とベートーヴェン

 新型コロナウイルスの影響で外出自粛や在宅勤務が増えたことから、運動不足の解消に三密を避けた散歩をする人が増えたような気がする。ご多分にもれず、私も休日には散歩をするようになったわけだが、あらためて自然の中を歩くと、川のせせらぎや鳥の鳴き声がとても心地よく聞こえる。

「忙しい人の前には、花は咲かない」という言葉があるが、日々慌ただしく過ごしている時には、気づきもしなかったことなど発見が多い。

 今年、生誕250年周年を迎えたベートーヴェンは、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットという静かな田舎町を散歩しながら、名曲「田園交響曲」を作曲したと言われている。そこには彼のお気に入りの自然な風景があり、そこから多くのヒントを得て曲ができあがった。小鳥の鳴き声はフルートやオーボエで表現され、小川のせせらぎや木の葉のざわめきなども聞こえてくる。まるで田園風景にたたずんでいるようだ。自然の流れとそこに生きる人間の感情が見事に絡み合い、自然と人間の調和を理想郷としてこの曲が作られたのではないかと思えてくる。

 さて、散歩に戻ってベートーヴェンを真似てみる。もとより私には作曲の才能などあるわけがないので、せめて言葉にして表現できないものかと、俳句で一句ひねり出そうとしてみたが、これがまた思うようにいかない。 

うぐいすの 姿を探す 木立かな

(あかんちょう)

2020.05.13

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑥

ソーシャルディスタンス

 フレデリック・フォーサイスのスパイ小説「ジャッカルの日」は、フランス大統領シャルル・ド・ゴールの暗殺を請け負った殺し屋ジャッカルと、これを阻止しようとするパリ警察の緊迫の戦いをリアリティたっぷりに描いた国際ミステリーだが、そのラストシーンが面白い。場面はパリの駅前広場、ナチス・ドイツ占領からの解放記念日の式典が行われている最中、ド・ゴール大統領が退役軍人の胸に勲章をつける瞬間だ。ジャッカルが頭部を狙って引き金を絞ったその時、大統領はひょいっと頭を下げて退役軍人の両頬に抱擁のキスをしたため、銃弾は命中せず石畳の表面を破壊。暗殺は未遂に終わったのである。抱擁のキスはラテン系民族の習慣なのだが、アングロサクソンであるジャッカルは不覚にもそれに気がつかなかったのだ。

 現在、新型コロナによる感染拡大は、欧州では特にイタリア、フランス、スペインに多いが、それがラテン系特有の濃厚接触の習慣も影響しているという記事を先日読んだ。確かに、北ヨーロッパの国々よりも感染者数の割合が高い。

 一方、日本はどうなのか。日本は元来、身体を触れ合うことで気持ちを表現する習慣がなかったが、高温多湿の気候風土の中では、密閉・密着は好まれず、風を通す「すきま」や適度な「間」が必要だったのではないだろうか。それはやがて「間」をとるという文化になり、「間が悪い」「間を置く」「間が持たない」など、常に「間」を意識した生活が定着してきたのだと思う。

 直接的で開放型、主役が抱き合う西洋のオペラと、間接的でエネルギーを内に込め、必要最低限の所作で感情を表現する日本の能・狂言を比べてみてもよくわかる。能や狂言は「間」を抜きにしては成り立たず、世阿弥の伝書『花鏡』には「せぬ隙は何とて面白きぞ」と書かれてあるくらいだ。茶道・華道・武道・和歌・庭園もみなそうだ。

 今、ソーシャルディスタンスという言葉が使われるようになったが、ここはひとつ、日本特有の「間」をとることを見直し、感染症の予防に活かしたい。「人間」という文字にも「間」が入っているではないか。

(あかんちょう)