スタッフのつぶやき
2024.09.18
すぎジイのつぶやき「柳に風」112
出張は刺激的
若い頃、公演・講座の企画のためによく出張に行った。特に能楽堂の企画に関連する出張が多かったように思う。
「能狂言を楽しむための講座」では毎回ユニークなテーマを取り上げ、アドバイザーと一緒に企画の取材と称して全国あちこちに赴いた。例えば、「剣と能」というテーマでは、奈良市の東北部にある、柳生新陰流で知られた剣豪の里を訪ねた。旧柳生藩家老屋敷や柳生正木坂剣禅道場、新陰流の開祖・柳生石舟斎が切ったと伝わる「一刀岩」など、柳生ゆかりの歴史スポットが点在している場所だ。講座でスクリーンに映し出すために写真を撮り、関係者に話を聞く。
奈良の吉野や熊野にも行った。本当は桜満開の時季がよいのだろうが、人が多くなりすぎるので秋頃に行ったような気がする。能には吉野・熊野、葛城山あたり一帯が舞台となる曲も多く、それらの能の背景を取り上げるにあたり、現地の風景をたくさんカメラに収めてきて紹介した。
また、毎年京都の壬生寺で行われている壬生狂言(正しくは「壬生大念仏狂言」)を取材したこともある。言ってみれば、台詞のないユーモラスな仏教無言劇で700年以上続いているものだ。2月の節分の頃、雪がちらつくような底冷えのする日で、鑑賞と取材の後は凍えた身体で大急ぎで高瀬川沿いの小料理屋に入り、燗酒で身体を温めたものだ。
伊勢神宮にも行った。伊勢街道や鈴鹿峠に関連する能もあるため、ご当地の能楽師に案内してもらい、その縁の地を撮影しつつ、背後にある歴史や伝承、風俗などを探訪した。
やはりどんな企画も現地に赴くことにより、その土地の空気を感じることで内容に一層リアリティと深みが出てくるものである。自分の足で取材をすることは非常に大切だということをアドバイザーから学んだ。
(すぎジイ)
2024.09.05
すぎジイのつぶやき「柳に風」111
お母さんが能面をつけると
夏の恒例と言えば、「夏休み、親子で楽しむわくわく能楽体験」というイベントだ。能狂言を鑑賞するだけでなく、能面をつけて舞台の上を歩いてみたり、楽器を触って音を鳴らしてみたり、狂言のコーナーで大きな声を出したり、いろいろな体験を通して能楽堂を一日楽しめる企画になっている。
中でも、能面をつけて舞台を歩くコーナーは人気だ。体験用に用意する面は小面(こおもて)という若く初々しい女性の面と般若(はんにゃ)という女性の嫉妬と恨みを表現した怨霊の面で、この般若の面をお母さんがつけた時の子どもの反応がとにかく面白い。こんな調子の親子の会話が聞こえてくる。
【A】
母「リョウくん、ママこれどう?」
息子「う〜ん、いつもと一緒。変わんない。」
母「はあ〜?」
【B】
母「カズくん、ママこれ似合う?」
息子「似合う似合う、似合いすぎ〜」
母「・・・どういうこと?」
【C】
母「ユウくん、ママこれどんな感じ?」
息子「昨日の夜のママの顔~」
母「ちょっと!!」
すぐ横で写真を撮ってるお父さんは、よくぞ言った⁈とばかりニヤニヤ・・・。
子どもはオブラートに包まず正直なので面白く、微笑ましい家族の雰囲気が伝わってくる。実際には、般若の面は激しい怒りを表しながら、角度を変えると悲しい表情に見える。本質的に、怒りと悲しみの二面性を巧みに表現した能面なのであり、そこには気品と美しさがなければならない。よくよく見れば、能面をつけた方が素顔よりも表情豊かに感じられるのは不思議である。
(すぎジイ)
2024.08.27
すぎジイのつぶやき「柳に風」110
映画「猿の惑星」
― なぜ人間が滅びて、猿が進化したのか? ―
広島原爆の日に、久しぶりに50年以上前のSF映画「猿の惑星」を観た。現代に生きる人間の問題を鋭く突いている。
米国から打ち上げられた宇宙船が、飛行中何らかのトラブルによりある惑星に落ちた。そこで宇宙飛行士が出くわしたのは、人間の言葉をしゃべって文明生活を送る類人猿と、言葉を失って飼育されている人間たちだった。人間より高等な猿の住む惑星。そこでは、猿が人間に餌を与え、人間を消毒し、人間を駆除すべきとするセリフが飛び交う。なぜか。猿の博士が言う。快楽や欲望のために他者を殺し、一片の土地欲しさに兄弟さえ殺す、そんな霊長類は人間のみであり、古代の人間の文明から、高い技術の遺物と同時に愚かさの証拠を見た。人間が、ありとあらゆるものを滅ぼしてしまったのだと。
ラストシーン、猿たちが決して近づかない場所に、人間が行ってみる。そこで見たものは、なんと破壊され崩れかかった米国の自由の女神だった。つまり、ここは猿の惑星ではなく、かつて人間が生きていた地球だったのだ。人間は自らを滅ぼしていくのか。
戦争、感染症、環境破壊、気候変動・・・、今のタイミングで観ると、あまりにも示唆に富んでいる映画である。
(すぎジイ)
2024.08.07
すぎジイのつぶやき「柳に風」109
枠にはまらない企画
コンサートの企画という仕事は、一度ゼロから決算までの全ての行程を自分自身で手がけてみなければ本質がわからない。出演交渉や契約をしたり、チラシの作成やチケットの販売、PR、当日プログラムの作成、本番の準備、舞台進行、来場者の対応、反省会、決算。
どこにどれだけ時間を要するか、困難を極めるのか、スムーズに流れるのか、また問題が生じることもあれば思い通りに進まないこともある。「企画というものは、最初が一番面白い」ということも言われる。この企画はうまくいくだろうか?、お客さんは入るだろうか?、つまりそういう心配をしながらワクワク感とともに進めている時が一番面白いのであり、マンネリ化してきたらもうやめた方がよい。
かつて、能楽堂の舞台を使ってクラシックの企画に取り組んだことがある。「世界の宮廷音楽」と「枠にはまらない男たち」といういずれもシリーズで展開した企画だ。
「世界の宮廷音楽」シリーズは、古楽器の響きやバロックの魅力をドイツ、フランス、スペイン、オーストリア、中国、日本の宮廷音楽という切り口で6回にわたり紹介した。毎回、演奏者の選出から出演交渉、契約、チラシ作成から販売プロモーション、当日プログラムの曲目解説まで全てのコンサート準備から実施、決算までを一人で完遂した。これは非常に勉強になった。特に曲目解説は諸々資料を調べつつ、極力わかりやすい文章を心がけ、関連する絵も載せた。完成品には愛着が伴う。もちろん本番はいずれも予想以上に素敵な演奏で、自画自賛だが企画全体を好評いただいた。
また、「枠にはまらない男たち」シリーズは、三味線の本條秀太郎、大鼓の大倉正之助、尺八の三橋貴風という伝統芸能分野のプロフェッショナルでジャンルの“枠にはまらない”活動をしている3人の男たちに光を当て、それぞれ三味線と胡弓、大鼓とアフリカン・パーカッション、尺八と中国琵琶という民族楽器との斬新な共演を軸にした3回シリーズの企画として展開した。これも同様に企画段階から本番まで全てを自らが手がけ、なんとかやりきることができた。お客様の反応にも大きな手ごたえを感じたものである。
コンサートの企画は、一度徹底的に自力でやってみてこそ、全体像がわかるものだ。
(すぎジイのつぶやき)
2024.07.24
すぎジイのつぶやき「柳に風」108
忙しいということは、怠けている証拠だ
これは、安田理深という仏教学者の言葉だ。自分では自戒の意味も込めて座右の銘にしている大切な言葉である。一瞬、「忙しい」ことが「怠けている」とはどういうこと? おかしくない? 自分はこんなに忙しく頑張っているのに怠けているなんてふざけないで! と思ってしまうだろう。だが、少し言葉を補足するとなんとなく納得できるようにもなる。つまり、(資本主義的に)忙しいということは、(人間らしさ的に)怠けている証拠だと。
忙しいという字をよく見ると、りっしんべんに“亡”、「心を亡くす」と書く。「無くす」ではなく「亡くす」。無くしたものは探すのをやめた時にふと見つかることもよくある話だが、亡くなったものは、もう見つからない。忙しいと自分のことで精いっぱいになり、イライラしてゆとりが持てなくなる。こうなると相手に対する配慮もできなくなり、人間らしい心は亡くなるということだろう。そしてもう元には戻らない。「怠ける」というのは「おこたる」という意味もあるので、そこにはつまり人間らしい生き方を怠るという意味も隠れているのではないかと思うのである。
冷静に考えてみれば、忙しいという時は世間の都合や資本主義的に忙しい日常に振り回されているのではないだろうか。忙しさの中に埋没して、自分の人生を見失っていることに気づく時、少し立ち止まって、誰とも代わることのできない「いのち」を本当に生きるということを考えたいものである。常日頃から姿勢を正して味わいたい言葉。それが、「忙しいということは、怠けている証拠だ」である。けっしてふざけているわけではない。
(すぎジイのつぶやき)
2024.07.07
すぎジイのつぶやき「柳に風」107
舞台転換丸見えオペラ
オペラという総合舞台芸術は、通常は幕のある奥行きの深い舞台と馬蹄形の客席から成る歌劇場で上演されるものだが、実は、幕も奥行きもない舞台と細長い客席で構成されたクラシック専用の豊田市コンサートホールでも度々上演してきた。
上演したのはオーストリアのバーデン市劇場という歌劇場のオペラで、1996年から17年間毎年来日ツアーが行われた。当館以外にも全国の幕がないホールや多目的な市民劇場など厳しい条件の施設を会場にし、数々の名作オペラが演じられてきたのである。
幕がないので舞台転換は客席から丸見えだ。丸見えだから見せるしかない。そこで、ものは考えようということで、幕間の“舞台転換を見せるオペラ”ということを売りにしてやってきた。興味のある人にとっては裏が見えることは面白いものだ。幕が下りて舞台が隠れていれば、何も気にすることもなくバタバタとセットを片付ければいいが、客席から見られるとなると舞台転換もある意味見せ物としてカッコよくスピーディーにやる必要があり、転換のリハーサルも行った。また、これはある時舞台監督から聞いた話だが、実はここ豊田市コンサートホールの舞台出入口の扉の高さが他館に比べて最も低いため、あらゆる大道具を当館のサイズに合わせて現地で制作していたらしい。大道具類は荷物の搬入用大型エレベーターを使ってホールのある10階まで何回も往復するが、大型エレベーターにも入らない長物をエスカレータを利用して担いで運んだことも度々だ。これが高じて、やがてバックステージツアーという企画も始めてしまった。舞台転換だけでなく、本番前に楽屋や衣裳部屋を見学できるツアーである。普通のコンサート違い、オペラは華やかな衣装や大小道具類も多いため見応えもあり。お客様には大好評であった。
そして本番の舞台は、もちろん本格的なオペラを鑑賞できるので、お客様の満足度は高い。17年続いた来日ツアーがオペラカンパニー側の都合でなくなってからは、多くのお客様からつくづく惜しまれたものである。今では、あの慌ただしい舞台転換がとても懐かしい。
(すぎジイのつぶやき)
2024.06.16
すぎジイのつぶやき「柳に風」106
ハプニングは感動を増幅させる
本番というのは時として思わぬハプニングが起きるものだ。そしてまた、その瞬間の対応の仕方で明暗を分けるものでもあり、かえって大きな感動を与えることもある。
能楽堂で能「隅田川」を上演していた時、主役の能楽師が途中で急に舞台上から姿を消した。舞台の端から客席に落ちたのである。いきなり視界から消えた現象に客席からは悲鳴が上がった。ところが、深い感動はそこから起こった。落ちた能楽師は、すくっと立ち上がり、そのまま何事もなかったかのように静かに平然と歩き、舞台の正面にある階段からゆっくりと舞台に戻ってきた。この間、能は途絶えることなく、他の演者らもいつも通り謡い囃し粛々と演奏を続けているのだ。まるで、「隅田川」の主人公である狂女が都から東国への道中の様を演出しているかのような一コマとも言える。終演後に多くのお客様から、とても驚いたが能楽師が一寸も乱れず平常心で演じ切る姿にいつも以上に深く感銘を受け、逆にむしろ貴重な瞬間に立ち会うことができたという声を聞き、自分も激しく同感したものである。
また、世界的なジャズピアニストの小曽根真さんは、あるオーケストラのコンサートで考えもつかない咄嗟のハプニング対応をされたことで有名だ。その日、小曽根さんはピアノが大活躍するバーンスタイン作曲の交響曲「不安の時代」のソリストととして出演していた。本番の演奏中、静かなピアノソロの部分で突如誰かの携帯電話の着信音が鳴り響いた。当然ホール内の雰囲気はかなり凍りつき、冷たい空気が流れたその瞬間、小曽根さんがあるアクションを起こした。なんと、着信音と同じメロディーを即興で曲に取り入れ演奏したのである。張り詰めた空気は一気に和み、客席はむしろ喝采、大いに盛り上がったのである。その小曽根さんの予期しない一瞬の粋な対応にお客様が感動したのは言うまでもない。
ハプニングはできればない方がいいが、もしもの場合の対応の仕方しだいで一転大きな感動につながるのだ。
(すぎジイ)
2024.06.14
すぎジイのつぶやき「柳に風」105
ハンモックで浮遊層になろう
仕事から離れて“非日常”や“自然との一体感”を味わいたいと思ったら、ハンモックで宙に浮くのに限る。初めてハンモックに揺れてみた時、言葉では言い表せられない想像以上の気持ちよさに驚いた。目を閉じるといつの間にか眠ってしまいそうになるのだ。ほんの少し地上から浮くだけでも、ふんわりとした浮遊感と身を包まれる優しい安心感に誰しも虜になるだろう。
ハンモック発祥の地は、南米のコロンビアやメキシコという高温多湿の気候の国々で、就寝の際に虫や動物から身を守るためと通気性をよくして涼を得るためだと言われている。近年では「トラベルハンモック」という丈夫で軽量かつコンパクトに収納できるものが登場し、ものの5分もあれば簡単に設置して寛ぐことができるようになったので、バッグの中にハンモックさえ入っていれば、森の中、湖畔や海辺の木立などたまたま素敵なロケーションの場所に出会った時にも、その空間を存分に楽しむことができるのだ。特に、自然との一体感を体感するには、他のどんな行為よりもハンモックの浮遊感が一番だと思う。
何か気に入らないことがあったり、ストレスを感じた時にも、まあビール片手に文庫本でも読みながらハンモックに身を任せれば極上の時間に変わる。ハンモックの浮遊層は富裕層よりも豊かなのである。
(すぎジイ)
2024.05.16
すぎジイのつぶやき「柳に風」104
メンズアーティストのオシャレ
コンサートホールに出演する男性アーティストは、女性のエレガントなドレスとは異なり、モノトーンを基調にしたクラシックな装いがほとんどである。そもそもクラシック音楽は宮廷や貴族の音楽をスポンサーやパトロンが支え、音楽家はそのお抱えという立場で発達してきた。宮廷では舞踏会が中心で、やがて演奏会の形式になったので、そのドレスコードは自ずとパーティー仕様となり、男性は燕尾服やタキシード、女性はイブニングドレスという装いが定着したようだ。メンズアーティストに黒い色調の正装が多い中、センスが光るオシャレを感じることがある。
ロンドン交響楽団の楽団員がステージ裏に用意していた本番用の靴は、いずれも高級な革靴で全てシューキーパー(木型)が入っていたことを覚えている。さすが英国紳士の国だ。また、昨年来日したフィンランドの名門ヘルシンキ大学男声合唱団は、軽装が多い合唱界にもかかわらず、メンバー全員がホワイトタイの燕尾服という格調高い装いであった。そこには、その芸術性や伝統・存在において指揮者やオーケストラと同格の自信と誇りを感じた。一方、人気の高い声楽アンサンブルのキングスシンガーズは、黒服ではなくチャコールグレーのスーツにブラウンのタイと靴という洒落た色調で登場した。靴は黒が基本のクラシック業界で、5人揃って茶系の靴を履いていることに英国人一流の紳士の余裕を感じたものだ。また、フランス人ピアニストのミッシェル・ダルベルトは、いかにも「正装」ではなく、やはり余裕を感じるグレーのスーツにタイで、フランス風の軽やかなダンディズムを見た。
メンズアーティストの何気ないオシャレや着こなしは、お国柄・伝統・思想など音楽以外で当人たちの粋を感じる部分でもあり、楽しみの一つと言ってもいい。
(すぎジイ)
2024.05.12
すぎジイのつぶやき「柳に風」103
老い木に花の咲かんが如し
― 能「実盛」にみる老武者の矜持 ―
男の晩年。己の生きざまを世に問う評価へのこだわり。いつの時代も変わらない悲哀に満ちた男の姿だろう。
能「実盛(さねもり)」は、平家の武将・斎藤実盛の最後を題材とした世阿弥の名作である。老齢を押して源平の戦に出た実盛。老武者であると見た相手が手加減するのを嫌い、あえて白髪を黒く染め、赤い直垂を着て血気盛んに戦に臨んだ。奇しくも敵の若武者に討ち取られたその首は、源氏方の名将・木曽義仲の前に差し出されたが、訝しく思った義仲がその首を洗わせると、はたして元の白髪が現れる。かつて実盛に命を助けられたことがある義仲にとって、その首はまさに命の恩人であった。
自らの生きざま死にざまにこだわり通した男のプライドゆえの執心は、いつの時代も変わらず、枯れ木となった老武者の悲しみは、無常であるがゆえに美しい。
誰にでも訪れる散り際の美学を深く味わう能「実盛」。今こそ、役職定年を迎えた自分にこの曲を重ね合わせたことは言うまでもない。
(すぎジイ)
2024.04.21
すぎジイのつぶやき「柳に風」102
出演者の食事さまざま
リハーサルに続いてその合間にする出演者の食事はさらに国別・個人別に個性的で面白い。ベジタリアンは時々いるが、本番前はバナナだけで済ませる人も多い。食事に豪華なお弁当はいらない代わりに、パスタの茹で麺だけ用意してほしいと言われたこともある。紅茶の種類にこだわる人がいれば、意外に洋食ではなく和食にこだわる人もいた。特にお寿司が好きで、本番前にも拘わらず生ものの寿司をリクエストしてきた人がいるし、ホテルの出張サービスで温かい食事をセットしたこともある。来日経験の多いあるウィーンの演奏団体は、リハーサル後の昼食時にはみんな勝手気ままに自由に外出する。夜は日本人の女性に声をかけたりする輩もいるそうだ。缶ビールを買っておいて、終演後すぐに手渡して飲み始めた集団もいる。なぜだかカルピスを好む演奏家は多い。また日本茶も意外と人気だ。地元豊田の名物コロッケや素朴な大判焼きは、出演者に差し入れすると大変喜ばれる。
食事のついでの行動も実に様々だ。ある人は、ホールに一番近い教会を教えてくれと言われ、本番当日の朝に教会へ出向いてから会場入りした。終演後にわざわざ管理事務所に来て、職員に対して労いの歌声を聴かせてくれた女性ヴォーカルグループもいた。昼食後の休憩時に能楽堂へ見学案内をしたところ、歓喜の声を上げて舞台に上がり、時間通りにホールに戻れなくなったことは一度や二度ではない。担当者はヒヤヒヤになるのだ。
(すぎジイ)
2024.04.10
すぎジイのつぶやき「柳に風」101
リハーサルさまざま
コンサートホールに出演するプロの演奏家のリハーサルは、それぞれ実に個性的だ。お国柄によっても個性が光る。
例えば、イタリア人の演奏家は喋ってばかりでいっこうに練習しない。一旦始まると今度は本番時間が迫ってきてもなかなか止めようとせず、時間オーバーが普通だ。一方ドイツの楽団は統制がとれていて、ステージマネージャーは厳しい鬼軍曹みたいだったりする。また、ある巨匠ピアニストはリハーサル時間にほとんどピアノに触れず、持ち込んだパソコンでしきりにホールの音響のチェックをしていた。本番に演奏する曲ではなく、ひたすらバッハの曲を弾いていたアーティストもいる。会場入りしてから休みもせずにピアノを弾き続けるピアニストがいれば、ほとんどリハーサルをしない演奏家もいる。すぐに休憩してタバコを吸いに出かける者もいる。ある時、リハーサル中に大きな地震があり、帰国したいと言い出したピアノ伴奏者もいた。リハーサルの様子を演奏者の奥様が聴き、周囲が驚くほど厳しいダメ出しをされている場面を見たこともある。幕がないコンサートホールでオペラを上演した際は、舞台転換もお客様に見られるので、舞台転換そのものをリハーサルしたことがあるし、テレビの収録があれば、別途カメラリハーサルが行われるのが常識だ。
リハーサルがお国柄や個人によって様々なのも楽しいが、その合間の食事はさらに個性的だ。それは次回詳しく触れることにしよう。本番以上にリハーサルと食事は、演奏者の素顔が見れて面白いものだ。
(すぎジイ)