スタッフのつぶやき
2024.11.23
すぎジイのつぶやき「柳に風」116
海外オーケストラの個性と響き
豊田市コンサートホールは、開館当初から世界の一流オーケストラのコンサートを定期的に上演してきた。ウィーン・フィルをはじめとしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ロンドン交響楽団、バイエルン放送交響楽団、デトロイト交響楽団、マリインスキー歌劇場管弦楽団、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団、フィンランド放送交響楽団・・・書き切れないほどである。
そしてプログラムは、できるだけ本領発揮というか本家本物というか、そのオケの持ち味が十分に楽しめる曲目をお願いしてきた。例えば、ベルリン放送交響楽団であればベートーヴェンやブラームスの交響曲、フィンランド放送交響楽団であればシベリウス、モスクワ放送交響楽団ならチャイコフスキーやショスタコーヴィチなど土着の作曲家の音楽は間違いなく醍醐味が聴ける。けして保守的というわけではなく、貴重な機会に本物を聴いていただくためには王道がベストだと思っている。もっとも最初からオーケストラがチャレンジングなプログラムを用意している場合は別だ。
当然、曲によってはオーケストラのサイズが巨大になるものもある。マーラーやブルックナー、リヒャルト・シュトラウスなどの交響曲はステージに溢れんばかりの人数の楽団員が乗り、特に金管楽器の奏者が通常より多い曲の場合は音が響きすぎるので、舞台奥の反響板の扉を開けて吸音壁へと変身させることもある。1004席の豊田市コンサートホールの規模と音響を最も効果的に活かせるのは、チェンバーオーケストラ(室内オーケストラ)といわれる20~40人くらいの規模の楽団である。例えば、名匠パーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団などは、その演奏、特に響きと表現力においてホールの大きさを活かしきっており、いつも見事な演奏を聴かせてくれる。ある時、指揮者パーヴォは日本ツアーの中で当館のみアンコール曲を変えた。響きの特性を活かしながら、唯一お気に入りのシベリウス「悲しきワルツ」を演奏したのである。その後、日本ツアーの間じゅう「豊田のホールは響きが素晴らしかった」と別会場でも話題にしてくれていたという。お世辞だとしても、嬉しいことだ。
同じ曲を演奏するにしても、国柄、伝統、指揮者などによって実に多彩な個性と響きを持ち、楽しませてくれるのが海外オーケストラなのである。
(すぎジイ)
2024.11.06
すぎジイのつぶやき「柳に風」115
殿様商売に未来はない
これは、闇に葬られた、ある求人広告のキャッチコピー案である。
かつてリクルートで仕事をしていた時、外車ディーラー某社の常務取締役から求人広告出稿の依頼を受けた。さっそく話を伺うと、販売業績が低迷し、このままでは会社の経営が危ぶまれるので、なんとか現状を打破するために、突破できるマネージャークラスの有能な人材を外部から中途採用したいという相談であった。それ相応の採用をするためには、かなり思い切った表現の求人広告を出す必要がある。そこで提案したのが表題のキャッチコピーだ。
外車だからと言ってこれまでのような上から目線で待ちの殿様商売をしていたらうちの会社は未来がない、という厳しい現状をあえて正直に見せ、誰かこの現状を打ち破ってやろうという高い意欲と経験豊富な人材に来てほしいという率直なメッセージを提案したつもりであった。
ところが、いざ広告案を持参してプレゼンテーションをすると、常務取締役の逆鱗に触れてしまい、顔を真っ赤にして「我社を馬鹿にしているのか! お前たち出入り禁止にするぞ!」と、大変な剣幕でやり直しを命ぜられた。理由は明白だ。あまりにもストレートに自社の問題点、痛いところを突かれたからであろう。この案に自信をもっていただけに内心私はやる気をなくし、やむを得ず無難なキャッチコピーに変更して再度プレゼンをして出稿にこぎつけた。あまりに無難なキャッチにしたので、その内容はもう忘れてしまったが、結果は明らかで当然期待するだけの人材は集まらなかった。
この時学んだことは、やはり人の心に響くキャッチコピーというものは、本音を語らなければ、最も届けたいメインターゲットには届かないということだ。そもそもキャッチコピーとは商品や作品の宣伝のためのうたい文句となる文章のことだが、一番のポイントはターゲットセグメンテーションと言われ、そのメッセージを届けたいメインターゲットになる人たちが誰なのかという絞り込みと、その人たちの心を動かす動機となる事や言葉が何なのかということを考え抜くことに尽きる。つまり、そのためには広告を依頼された根本原因を究明することとその解決策を言葉で探り当てることが大切なのだ。
リクルート在籍中にあるコピーライターから、「キャッチワーク」と称して、一つの課題・テーマについてキャッチコピーを100本書き出すという、つまり野球の100本ノックと同じトレーニングを教えてもらったことがある。ネタが完全に尽きるまで、徹底的に絞り出していく過程で最もシンプルで明快な表現にたどり着いていく。キャッチコピーを考えることは本質を見抜くことなのである。
(すぎジイ)
2024.10.18
すぎジイのつぶやき「柳に風」114
巴御前がやりてえなあ
能楽堂の企画を担当していた頃の話。通常は、企画会議で出演してもらう能楽師を決め、その人に演じてもらいたい候補曲を挙げて出演交渉することが多いが、時として演じる側のリクエストを伺ったうえでお願いすることもある。さて、そのような時に演者側からはいったいどんな曲がリクエストの上位に来るのか。
実際に私が出演交渉を行っていた時、人間国宝だった宝生流の三川泉師に思い切ってお尋ねしたことがある。三川師は流暢なべらんめえ調で「そうだなあ、「巴御前」なんてやりてえなあ。ありゃあ実に面白い能なんだよ」とズバリ即答された。また同じく、別の機会に喜多流の家元だった喜多六平太師に訊くと、「できれば「巴」がやりたいな。あれは実にいい能だ」とこちらも迷わず答えられた。驚くことに名人と言われる人たちがやりたい曲に挙げたのが共通して能「巴」だった。
ご存じ「巴」とは平家物語に登場する人物で、木曽義仲を愛し、その忠臣として戦場を駆け巡った女武者・巴御前を主人公にした能である。女性を主人公にした唯一の修羅能であり、勇敢さの裏にある女性の主君に対する一途な想いと深い哀しみを描いた人気曲である。
男の役者が女性に扮し、その女性が男への想いを表現するという役どころの複雑さが、名人には何とも言えない面白さ故にやりがいがあるのだろう。三川師・喜多師のいずれも素晴らしい名演で、端正な表層から滲み出るような艶やかな舞台であった。80歳を越えてなお魅了される能「巴」。再びあのような名演に出会いたいものである。
(すぎジイ)
2024.10.10
すぎジイのつぶやき「柳に風」113
ラジオ少年のラジオ出演
先日、東京のラジオ番組に生出演した。
東京都狛江市のラジオ局FM狛江の「日本の文化のそのあした」という、金春流の能楽師中村昌弘さんがパーソナリティーをされている1時間のトーク番組だ。近々中村さんに豊田市能楽堂の講座に出演していただくので、能楽堂のPRを兼ねてゲストに招かれたのである。1時間のうち40分ほど一緒に話をしなければならない。といっても現代はリモートによる出演が可能なので、自分は自宅に居ながらにしてお茶を飲みながらのオンエアーとなった。内容は、豊田市能楽堂のこと、アクセスや沿革、特徴、続いてパーソナルな話題として能楽堂の職員に就任した経緯や自分と能楽とのかかわり、館長時代の仕事内容からこれまで行ってきた企画や公演の思い出など実に多岐にわたっていた。
パーソナリティーとのトーク番組なので、途中脱線もあり横道に逸れることも多く、思うようにはいかない。それでも相手がいるということは、一方通行ではないので会話を楽しみながらというリラックスした雰囲気で話ができる。途中、ゲスト出演した自分のリクエスト曲も流してくれた。曲はギタリスト村治佳織さんのレパートリーからイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の“愛のテーマ”だ。もちろんこれは大好きな映画であり音楽なのだが、イタリア映画は能に似ているという話題につなげようと考えたのが、リクエストした本当の理由である。人間の悲しみや苦悩、切なさを描き、ハッピーエンドではなく常に深い問いを残してエンディングを迎える。決して答えを導くのでもなくスカッと解決して終わるのでもない。このなんとなくモヤモヤとあるいはズッシリと考えさせられるところが能に似ているのだ。だから素晴らしいのだけれど。と、そんな話もしつつ、1時間はあっという間であった。
考えてみれば、僕たちの世代は子どもの頃にラジオ少年だった人が多いと思う。深夜放送華やかりし時代で、よく勉強するふりをしてラジオから流れるパーソナリティーの声や音楽に聴き入ったものだ。布団に潜って深夜放送を聴いていると、暗闇の孤独感と広大な世界観が入り交じり、独特の快感を覚えた記憶は誰にでもあるだろう。よって、不思議とラジオにはテレビよりも身近な友だちのような存在感を感じるのである。
ラジオ出演のおかげで、ラジオ少年だったあの懐かしい日々までも思い出すことができた。やっぱりラジオは楽しい。
(すぎジイのつぶやき)
2024.09.18
すぎジイのつぶやき「柳に風」112
出張は刺激的
若い頃、公演・講座の企画のためによく出張に行った。特に能楽堂の企画に関連する出張が多かったように思う。
「能狂言を楽しむための講座」では毎回ユニークなテーマを取り上げ、アドバイザーと一緒に企画の取材と称して全国あちこちに赴いた。例えば、「剣と能」というテーマでは、奈良市の東北部にある、柳生新陰流で知られた剣豪の里を訪ねた。旧柳生藩家老屋敷や柳生正木坂剣禅道場、新陰流の開祖・柳生石舟斎が切ったと伝わる「一刀岩」など、柳生ゆかりの歴史スポットが点在している場所だ。講座でスクリーンに映し出すために写真を撮り、関係者に話を聞く。
奈良の吉野や熊野にも行った。本当は桜満開の時季がよいのだろうが、人が多くなりすぎるので秋頃に行ったような気がする。能には吉野・熊野、葛城山あたり一帯が舞台となる曲も多く、それらの能の背景を取り上げるにあたり、現地の風景をたくさんカメラに収めてきて紹介した。
また、毎年京都の壬生寺で行われている壬生狂言(正しくは「壬生大念仏狂言」)を取材したこともある。言ってみれば、台詞のないユーモラスな仏教無言劇で700年以上続いているものだ。2月の節分の頃、雪がちらつくような底冷えのする日で、鑑賞と取材の後は凍えた身体で大急ぎで高瀬川沿いの小料理屋に入り、燗酒で身体を温めたものだ。
伊勢神宮にも行った。伊勢街道や鈴鹿峠に関連する能もあるため、ご当地の能楽師に案内してもらい、その縁の地を撮影しつつ、背後にある歴史や伝承、風俗などを探訪した。
やはりどんな企画も現地に赴くことにより、その土地の空気を感じることで内容に一層リアリティと深みが出てくるものである。自分の足で取材をすることは非常に大切だということをアドバイザーから学んだ。
(すぎジイ)
2024.09.05
すぎジイのつぶやき「柳に風」111
お母さんが能面をつけると
夏の恒例と言えば、「夏休み、親子で楽しむわくわく能楽体験」というイベントだ。能狂言を鑑賞するだけでなく、能面をつけて舞台の上を歩いてみたり、楽器を触って音を鳴らしてみたり、狂言のコーナーで大きな声を出したり、いろいろな体験を通して能楽堂を一日楽しめる企画になっている。
中でも、能面をつけて舞台を歩くコーナーは人気だ。体験用に用意する面は小面(こおもて)という若く初々しい女性の面と般若(はんにゃ)という女性の嫉妬と恨みを表現した怨霊の面で、この般若の面をお母さんがつけた時の子どもの反応がとにかく面白い。こんな調子の親子の会話が聞こえてくる。
【A】
母「リョウくん、ママこれどう?」
息子「う〜ん、いつもと一緒。変わんない。」
母「はあ〜?」
【B】
母「カズくん、ママこれ似合う?」
息子「似合う似合う、似合いすぎ〜」
母「・・・どういうこと?」
【C】
母「ユウくん、ママこれどんな感じ?」
息子「昨日の夜のママの顔~」
母「ちょっと!!」
すぐ横で写真を撮ってるお父さんは、よくぞ言った⁈とばかりニヤニヤ・・・。
子どもはオブラートに包まず正直なので面白く、微笑ましい家族の雰囲気が伝わってくる。実際には、般若の面は激しい怒りを表しながら、角度を変えると悲しい表情に見える。本質的に、怒りと悲しみの二面性を巧みに表現した能面なのであり、そこには気品と美しさがなければならない。よくよく見れば、能面をつけた方が素顔よりも表情豊かに感じられるのは不思議である。
(すぎジイ)
2024.08.27
すぎジイのつぶやき「柳に風」110
映画「猿の惑星」
― なぜ人間が滅びて、猿が進化したのか? ―
広島原爆の日に、久しぶりに50年以上前のSF映画「猿の惑星」を観た。現代に生きる人間の問題を鋭く突いている。
米国から打ち上げられた宇宙船が、飛行中何らかのトラブルによりある惑星に落ちた。そこで宇宙飛行士が出くわしたのは、人間の言葉をしゃべって文明生活を送る類人猿と、言葉を失って飼育されている人間たちだった。人間より高等な猿の住む惑星。そこでは、猿が人間に餌を与え、人間を消毒し、人間を駆除すべきとするセリフが飛び交う。なぜか。猿の博士が言う。快楽や欲望のために他者を殺し、一片の土地欲しさに兄弟さえ殺す、そんな霊長類は人間のみであり、古代の人間の文明から、高い技術の遺物と同時に愚かさの証拠を見た。人間が、ありとあらゆるものを滅ぼしてしまったのだと。
ラストシーン、猿たちが決して近づかない場所に、人間が行ってみる。そこで見たものは、なんと破壊され崩れかかった米国の自由の女神だった。つまり、ここは猿の惑星ではなく、かつて人間が生きていた地球だったのだ。人間は自らを滅ぼしていくのか。
戦争、感染症、環境破壊、気候変動・・・、今のタイミングで観ると、あまりにも示唆に富んでいる映画である。
(すぎジイ)
2024.08.07
すぎジイのつぶやき「柳に風」109
枠にはまらない企画
コンサートの企画という仕事は、一度ゼロから決算までの全ての行程を自分自身で手がけてみなければ本質がわからない。出演交渉や契約をしたり、チラシの作成やチケットの販売、PR、当日プログラムの作成、本番の準備、舞台進行、来場者の対応、反省会、決算。
どこにどれだけ時間を要するか、困難を極めるのか、スムーズに流れるのか、また問題が生じることもあれば思い通りに進まないこともある。「企画というものは、最初が一番面白い」ということも言われる。この企画はうまくいくだろうか?、お客さんは入るだろうか?、つまりそういう心配をしながらワクワク感とともに進めている時が一番面白いのであり、マンネリ化してきたらもうやめた方がよい。
かつて、能楽堂の舞台を使ってクラシックの企画に取り組んだことがある。「世界の宮廷音楽」と「枠にはまらない男たち」といういずれもシリーズで展開した企画だ。
「世界の宮廷音楽」シリーズは、古楽器の響きやバロックの魅力をドイツ、フランス、スペイン、オーストリア、中国、日本の宮廷音楽という切り口で6回にわたり紹介した。毎回、演奏者の選出から出演交渉、契約、チラシ作成から販売プロモーション、当日プログラムの曲目解説まで全てのコンサート準備から実施、決算までを一人で完遂した。これは非常に勉強になった。特に曲目解説は諸々資料を調べつつ、極力わかりやすい文章を心がけ、関連する絵も載せた。完成品には愛着が伴う。もちろん本番はいずれも予想以上に素敵な演奏で、自画自賛だが企画全体を好評いただいた。
また、「枠にはまらない男たち」シリーズは、三味線の本條秀太郎、大鼓の大倉正之助、尺八の三橋貴風という伝統芸能分野のプロフェッショナルでジャンルの“枠にはまらない”活動をしている3人の男たちに光を当て、それぞれ三味線と胡弓、大鼓とアフリカン・パーカッション、尺八と中国琵琶という民族楽器との斬新な共演を軸にした3回シリーズの企画として展開した。これも同様に企画段階から本番まで全てを自らが手がけ、なんとかやりきることができた。お客様の反応にも大きな手ごたえを感じたものである。
コンサートの企画は、一度徹底的に自力でやってみてこそ、全体像がわかるものだ。
(すぎジイのつぶやき)
2024.07.24
すぎジイのつぶやき「柳に風」108
忙しいということは、怠けている証拠だ
これは、安田理深という仏教学者の言葉だ。自分では自戒の意味も込めて座右の銘にしている大切な言葉である。一瞬、「忙しい」ことが「怠けている」とはどういうこと? おかしくない? 自分はこんなに忙しく頑張っているのに怠けているなんてふざけないで! と思ってしまうだろう。だが、少し言葉を補足するとなんとなく納得できるようにもなる。つまり、(資本主義的に)忙しいということは、(人間らしさ的に)怠けている証拠だと。
忙しいという字をよく見ると、りっしんべんに“亡”、「心を亡くす」と書く。「無くす」ではなく「亡くす」。無くしたものは探すのをやめた時にふと見つかることもよくある話だが、亡くなったものは、もう見つからない。忙しいと自分のことで精いっぱいになり、イライラしてゆとりが持てなくなる。こうなると相手に対する配慮もできなくなり、人間らしい心は亡くなるということだろう。そしてもう元には戻らない。「怠ける」というのは「おこたる」という意味もあるので、そこにはつまり人間らしい生き方を怠るという意味も隠れているのではないかと思うのである。
冷静に考えてみれば、忙しいという時は世間の都合や資本主義的に忙しい日常に振り回されているのではないだろうか。忙しさの中に埋没して、自分の人生を見失っていることに気づく時、少し立ち止まって、誰とも代わることのできない「いのち」を本当に生きるということを考えたいものである。常日頃から姿勢を正して味わいたい言葉。それが、「忙しいということは、怠けている証拠だ」である。けっしてふざけているわけではない。
(すぎジイのつぶやき)
2024.07.07
すぎジイのつぶやき「柳に風」107
舞台転換丸見えオペラ
オペラという総合舞台芸術は、通常は幕のある奥行きの深い舞台と馬蹄形の客席から成る歌劇場で上演されるものだが、実は、幕も奥行きもない舞台と細長い客席で構成されたクラシック専用の豊田市コンサートホールでも度々上演してきた。
上演したのはオーストリアのバーデン市劇場という歌劇場のオペラで、1996年から17年間毎年来日ツアーが行われた。当館以外にも全国の幕がないホールや多目的な市民劇場など厳しい条件の施設を会場にし、数々の名作オペラが演じられてきたのである。
幕がないので舞台転換は客席から丸見えだ。丸見えだから見せるしかない。そこで、ものは考えようということで、幕間の“舞台転換を見せるオペラ”ということを売りにしてやってきた。興味のある人にとっては裏が見えることは面白いものだ。幕が下りて舞台が隠れていれば、何も気にすることもなくバタバタとセットを片付ければいいが、客席から見られるとなると舞台転換もある意味見せ物としてカッコよくスピーディーにやる必要があり、転換のリハーサルも行った。また、これはある時舞台監督から聞いた話だが、実はここ豊田市コンサートホールの舞台出入口の扉の高さが他館に比べて最も低いため、あらゆる大道具を当館のサイズに合わせて現地で制作していたらしい。大道具類は荷物の搬入用大型エレベーターを使ってホールのある10階まで何回も往復するが、大型エレベーターにも入らない長物をエスカレータを利用して担いで運んだことも度々だ。これが高じて、やがてバックステージツアーという企画も始めてしまった。舞台転換だけでなく、本番前に楽屋や衣裳部屋を見学できるツアーである。普通のコンサート違い、オペラは華やかな衣装や大小道具類も多いため見応えもあり。お客様には大好評であった。
そして本番の舞台は、もちろん本格的なオペラを鑑賞できるので、お客様の満足度は高い。17年続いた来日ツアーがオペラカンパニー側の都合でなくなってからは、多くのお客様からつくづく惜しまれたものである。今では、あの慌ただしい舞台転換がとても懐かしい。
(すぎジイのつぶやき)
2024.06.16
すぎジイのつぶやき「柳に風」106
ハプニングは感動を増幅させる
本番というのは時として思わぬハプニングが起きるものだ。そしてまた、その瞬間の対応の仕方で明暗を分けるものでもあり、かえって大きな感動を与えることもある。
能楽堂で能「隅田川」を上演していた時、主役の能楽師が途中で急に舞台上から姿を消した。舞台の端から客席に落ちたのである。いきなり視界から消えた現象に客席からは悲鳴が上がった。ところが、深い感動はそこから起こった。落ちた能楽師は、すくっと立ち上がり、そのまま何事もなかったかのように静かに平然と歩き、舞台の正面にある階段からゆっくりと舞台に戻ってきた。この間、能は途絶えることなく、他の演者らもいつも通り謡い囃し粛々と演奏を続けているのだ。まるで、「隅田川」の主人公である狂女が都から東国への道中の様を演出しているかのような一コマとも言える。終演後に多くのお客様から、とても驚いたが能楽師が一寸も乱れず平常心で演じ切る姿にいつも以上に深く感銘を受け、逆にむしろ貴重な瞬間に立ち会うことができたという声を聞き、自分も激しく同感したものである。
また、世界的なジャズピアニストの小曽根真さんは、あるオーケストラのコンサートで考えもつかない咄嗟のハプニング対応をされたことで有名だ。その日、小曽根さんはピアノが大活躍するバーンスタイン作曲の交響曲「不安の時代」のソリストととして出演していた。本番の演奏中、静かなピアノソロの部分で突如誰かの携帯電話の着信音が鳴り響いた。当然ホール内の雰囲気はかなり凍りつき、冷たい空気が流れたその瞬間、小曽根さんがあるアクションを起こした。なんと、着信音と同じメロディーを即興で曲に取り入れ演奏したのである。張り詰めた空気は一気に和み、客席はむしろ喝采、大いに盛り上がったのである。その小曽根さんの予期しない一瞬の粋な対応にお客様が感動したのは言うまでもない。
ハプニングはできればない方がいいが、もしもの場合の対応の仕方しだいで一転大きな感動につながるのだ。
(すぎジイ)
2024.06.14
すぎジイのつぶやき「柳に風」105
ハンモックで浮遊層になろう
仕事から離れて“非日常”や“自然との一体感”を味わいたいと思ったら、ハンモックで宙に浮くのに限る。初めてハンモックに揺れてみた時、言葉では言い表せられない想像以上の気持ちよさに驚いた。目を閉じるといつの間にか眠ってしまいそうになるのだ。ほんの少し地上から浮くだけでも、ふんわりとした浮遊感と身を包まれる優しい安心感に誰しも虜になるだろう。
ハンモック発祥の地は、南米のコロンビアやメキシコという高温多湿の気候の国々で、就寝の際に虫や動物から身を守るためと通気性をよくして涼を得るためだと言われている。近年では「トラベルハンモック」という丈夫で軽量かつコンパクトに収納できるものが登場し、ものの5分もあれば簡単に設置して寛ぐことができるようになったので、バッグの中にハンモックさえ入っていれば、森の中、湖畔や海辺の木立などたまたま素敵なロケーションの場所に出会った時にも、その空間を存分に楽しむことができるのだ。特に、自然との一体感を体感するには、他のどんな行為よりもハンモックの浮遊感が一番だと思う。
何か気に入らないことがあったり、ストレスを感じた時にも、まあビール片手に文庫本でも読みながらハンモックに身を任せれば極上の時間に変わる。ハンモックの浮遊層は富裕層よりも豊かなのである。
(すぎジイ)