スタッフのつぶやき

2024.07.24

すぎジイのつぶやき「柳に風」108

忙しいということは、怠けている証拠だ

 これは、安田理深という仏教学者の言葉だ。自分では自戒の意味も込めて座右の銘にしている大切な言葉である。一瞬、「忙しい」ことが「怠けている」とはどういうこと? おかしくない? 自分はこんなに忙しく頑張っているのに怠けているなんてふざけないで! と思ってしまうだろう。だが、少し言葉を補足するとなんとなく納得できるようにもなる。つまり、(資本主義的に)忙しいということは、(人間らしさ的に)怠けている証拠だと。

 忙しいという字をよく見ると、りっしんべんに“亡”、「心を亡くす」と書く。「無くす」ではなく「亡くす」。無くしたものは探すのをやめた時にふと見つかることもよくある話だが、亡くなったものは、もう見つからない。忙しいと自分のことで精いっぱいになり、イライラしてゆとりが持てなくなる。こうなると相手に対する配慮もできなくなり、人間らしい心は亡くなるということだろう。そしてもう元には戻らない。「怠ける」というのは「おこたる」という意味もあるので、そこにはつまり人間らしい生き方を怠るという意味も隠れているのではないかと思うのである。

 冷静に考えてみれば、忙しいという時は世間の都合や資本主義的に忙しい日常に振り回されているのではないだろうか。忙しさの中に埋没して、自分の人生を見失っていることに気づく時、少し立ち止まって、誰とも代わることのできない「いのち」を本当に生きるということを考えたいものである。常日頃から姿勢を正して味わいたい言葉。それが、「忙しいということは、怠けている証拠だ」である。けっしてふざけているわけではない。

(すぎジイのつぶやき)

2024.07.07

すぎジイのつぶやき「柳に風」107

舞台転換丸見えオペラ

 オペラという総合舞台芸術は、通常は幕のある奥行きの深い舞台と馬蹄形の客席から成る歌劇場で上演されるものだが、実は、幕も奥行きもない舞台と細長い客席で構成されたクラシック専用の豊田市コンサートホールでも度々上演してきた。

 上演したのはオーストリアのバーデン市劇場という歌劇場のオペラで、1996年から17年間毎年来日ツアーが行われた。当館以外にも全国の幕がないホールや多目的な市民劇場など厳しい条件の施設を会場にし、数々の名作オペラが演じられてきたのである。

 幕がないので舞台転換は客席から丸見えだ。丸見えだから見せるしかない。そこで、ものは考えようということで、幕間の“舞台転換を見せるオペラ”ということを売りにしてやってきた。興味のある人にとっては裏が見えることは面白いものだ。幕が下りて舞台が隠れていれば、何も気にすることもなくバタバタとセットを片付ければいいが、客席から見られるとなると舞台転換もある意味見せ物としてカッコよくスピーディーにやる必要があり、転換のリハーサルも行った。また、これはある時舞台監督から聞いた話だが、実はここ豊田市コンサートホールの舞台出入口の扉の高さが他館に比べて最も低いため、あらゆる大道具を当館のサイズに合わせて現地で制作していたらしい。大道具類は荷物の搬入用大型エレベーターを使ってホールのある10階まで何回も往復するが、大型エレベーターにも入らない長物をエスカレータを利用して担いで運んだことも度々だ。これが高じて、やがてバックステージツアーという企画も始めてしまった。舞台転換だけでなく、本番前に楽屋や衣裳部屋を見学できるツアーである。普通のコンサート違い、オペラは華やかな衣装や大小道具類も多いため見応えもあり。お客様には大好評であった。

 そして本番の舞台は、もちろん本格的なオペラを鑑賞できるので、お客様の満足度は高い。17年続いた来日ツアーがオペラカンパニー側の都合でなくなってからは、多くのお客様からつくづく惜しまれたものである。今では、あの慌ただしい舞台転換がとても懐かしい。

(すぎジイのつぶやき)

2024.06.16

すぎジイのつぶやき「柳に風」106

ハプニングは感動を増幅させる

 本番というのは時として思わぬハプニングが起きるものだ。そしてまた、その瞬間の対応の仕方で明暗を分けるものでもあり、かえって大きな感動を与えることもある。

 能楽堂で能「隅田川」を上演していた時、主役の能楽師が途中で急に舞台上から姿を消した。舞台の端から客席に落ちたのである。いきなり視界から消えた現象に客席からは悲鳴が上がった。ところが、深い感動はそこから起こった。落ちた能楽師は、すくっと立ち上がり、そのまま何事もなかったかのように静かに平然と歩き、舞台の正面にある階段からゆっくりと舞台に戻ってきた。この間、能は途絶えることなく、他の演者らもいつも通り謡い囃し粛々と演奏を続けているのだ。まるで、「隅田川」の主人公である狂女が都から東国への道中の様を演出しているかのような一コマとも言える。終演後に多くのお客様から、とても驚いたが能楽師が一寸も乱れず平常心で演じ切る姿にいつも以上に深く感銘を受け、逆にむしろ貴重な瞬間に立ち会うことができたという声を聞き、自分も激しく同感したものである。

 また、世界的なジャズピアニストの小曽根真さんは、あるオーケストラのコンサートで考えもつかない咄嗟のハプニング対応をされたことで有名だ。その日、小曽根さんはピアノが大活躍するバーンスタイン作曲の交響曲「不安の時代」のソリストととして出演していた。本番の演奏中、静かなピアノソロの部分で突如誰かの携帯電話の着信音が鳴り響いた。当然ホール内の雰囲気はかなり凍りつき、冷たい空気が流れたその瞬間、小曽根さんがあるアクションを起こした。なんと、着信音と同じメロディーを即興で曲に取り入れ演奏したのである。張り詰めた空気は一気に和み、客席はむしろ喝采、大いに盛り上がったのである。その小曽根さんの予期しない一瞬の粋な対応にお客様が感動したのは言うまでもない。

 ハプニングはできればない方がいいが、もしもの場合の対応の仕方しだいで一転大きな感動につながるのだ。

(すぎジイ)

 

2024.06.14

すぎジイのつぶやき「柳に風」105

ハンモックで浮遊層になろう

 仕事から離れて“非日常”や“自然との一体感”を味わいたいと思ったら、ハンモックで宙に浮くのに限る。初めてハンモックに揺れてみた時、言葉では言い表せられない想像以上の気持ちよさに驚いた。目を閉じるといつの間にか眠ってしまいそうになるのだ。ほんの少し地上から浮くだけでも、ふんわりとした浮遊感と身を包まれる優しい安心感に誰しも虜になるだろう。

 ハンモック発祥の地は、南米のコロンビアやメキシコという高温多湿の気候の国々で、就寝の際に虫や動物から身を守るためと通気性をよくして涼を得るためだと言われている。近年では「トラベルハンモック」という丈夫で軽量かつコンパクトに収納できるものが登場し、ものの5分もあれば簡単に設置して寛ぐことができるようになったので、バッグの中にハンモックさえ入っていれば、森の中、湖畔や海辺の木立などたまたま素敵なロケーションの場所に出会った時にも、その空間を存分に楽しむことができるのだ。特に、自然との一体感を体感するには、他のどんな行為よりもハンモックの浮遊感が一番だと思う。

 何か気に入らないことがあったり、ストレスを感じた時にも、まあビール片手に文庫本でも読みながらハンモックに身を任せれば極上の時間に変わる。ハンモックの浮遊層は富裕層よりも豊かなのである。

(すぎジイ)

 

2024.05.16

すぎジイのつぶやき「柳に風」104

メンズアーティストのオシャレ

 コンサートホールに出演する男性アーティストは、女性のエレガントなドレスとは異なり、モノトーンを基調にしたクラシックな装いがほとんどである。そもそもクラシック音楽は宮廷や貴族の音楽をスポンサーやパトロンが支え、音楽家はそのお抱えという立場で発達してきた。宮廷では舞踏会が中心で、やがて演奏会の形式になったので、そのドレスコードは自ずとパーティー仕様となり、男性は燕尾服やタキシード、女性はイブニングドレスという装いが定着したようだ。メンズアーティストに黒い色調の正装が多い中、センスが光るオシャレを感じることがある。

 ロンドン交響楽団の楽団員がステージ裏に用意していた本番用の靴は、いずれも高級な革靴で全てシューキーパー(木型)が入っていたことを覚えている。さすが英国紳士の国だ。また、昨年来日したフィンランドの名門ヘルシンキ大学男声合唱団は、軽装が多い合唱界にもかかわらず、メンバー全員がホワイトタイの燕尾服という格調高い装いであった。そこには、その芸術性や伝統・存在において指揮者やオーケストラと同格の自信と誇りを感じた。一方、人気の高い声楽アンサンブルのキングスシンガーズは、黒服ではなくチャコールグレーのスーツにブラウンのタイと靴という洒落た色調で登場した。靴は黒が基本のクラシック業界で、5人揃って茶系の靴を履いていることに英国人一流の紳士の余裕を感じたものだ。また、フランス人ピアニストのミッシェル・ダルベルトは、いかにも「正装」ではなく、やはり余裕を感じるグレーのスーツにタイで、フランス風の軽やかなダンディズムを見た。

 メンズアーティストの何気ないオシャレや着こなしは、お国柄・伝統・思想など音楽以外で当人たちの粋を感じる部分でもあり、楽しみの一つと言ってもいい。

(すぎジイ)

2024.05.12

すぎジイのつぶやき「柳に風」103

老い木に花の咲かんが如し

  ― 能「実盛」にみる老武者の矜持 ―

 男の晩年。己の生きざまを世に問う評価へのこだわり。いつの時代も変わらない悲哀に満ちた男の姿だろう。

 能「実盛(さねもり)」は、平家の武将・斎藤実盛の最後を題材とした世阿弥の名作である。老齢を押して源平の戦に出た実盛。老武者であると見た相手が手加減するのを嫌い、あえて白髪を黒く染め、赤い直垂を着て血気盛んに戦に臨んだ。奇しくも敵の若武者に討ち取られたその首は、源氏方の名将・木曽義仲の前に差し出されたが、訝しく思った義仲がその首を洗わせると、はたして元の白髪が現れる。かつて実盛に命を助けられたことがある義仲にとって、その首はまさに命の恩人であった。

 自らの生きざま死にざまにこだわり通した男のプライドゆえの執心は、いつの時代も変わらず、枯れ木となった老武者の悲しみは、無常であるがゆえに美しい。

 誰にでも訪れる散り際の美学を深く味わう能「実盛」。今こそ、役職定年を迎えた自分にこの曲を重ね合わせたことは言うまでもない。

(すぎジイ)

2024.04.21

すぎジイのつぶやき「柳に風」102

出演者の食事さまざま

 リハーサルに続いてその合間にする出演者の食事はさらに国別・個人別に個性的で面白い。ベジタリアンは時々いるが、本番前はバナナだけで済ませる人も多い。食事に豪華なお弁当はいらない代わりに、パスタの茹で麺だけ用意してほしいと言われたこともある。紅茶の種類にこだわる人がいれば、意外に洋食ではなく和食にこだわる人もいた。特にお寿司が好きで、本番前にも拘わらず生ものの寿司をリクエストしてきた人がいるし、ホテルの出張サービスで温かい食事をセットしたこともある。来日経験の多いあるウィーンの演奏団体は、リハーサル後の昼食時にはみんな勝手気ままに自由に外出する。夜は日本人の女性に声をかけたりする輩もいるそうだ。缶ビールを買っておいて、終演後すぐに手渡して飲み始めた集団もいる。なぜだかカルピスを好む演奏家は多い。また日本茶も意外と人気だ。地元豊田の名物コロッケや素朴な大判焼きは、出演者に差し入れすると大変喜ばれる。

 食事のついでの行動も実に様々だ。ある人は、ホールに一番近い教会を教えてくれと言われ、本番当日の朝に教会へ出向いてから会場入りした。終演後にわざわざ管理事務所に来て、職員に対して労いの歌声を聴かせてくれた女性ヴォーカルグループもいた。昼食後の休憩時に能楽堂へ見学案内をしたところ、歓喜の声を上げて舞台に上がり、時間通りにホールに戻れなくなったことは一度や二度ではない。担当者はヒヤヒヤになるのだ。

(すぎジイ)

 

2024.04.10

すぎジイのつぶやき「柳に風」101

リハーサルさまざま

 コンサートホールに出演するプロの演奏家のリハーサルは、それぞれ実に個性的だ。お国柄によっても個性が光る。

 例えば、イタリア人の演奏家は喋ってばかりでいっこうに練習しない。一旦始まると今度は本番時間が迫ってきてもなかなか止めようとせず、時間オーバーが普通だ。一方ドイツの楽団は統制がとれていて、ステージマネージャーは厳しい鬼軍曹みたいだったりする。また、ある巨匠ピアニストはリハーサル時間にほとんどピアノに触れず、持ち込んだパソコンでしきりにホールの音響のチェックをしていた。本番に演奏する曲ではなく、ひたすらバッハの曲を弾いていたアーティストもいる。会場入りしてから休みもせずにピアノを弾き続けるピアニストがいれば、ほとんどリハーサルをしない演奏家もいる。すぐに休憩してタバコを吸いに出かける者もいる。ある時、リハーサル中に大きな地震があり、帰国したいと言い出したピアノ伴奏者もいた。リハーサルの様子を演奏者の奥様が聴き、周囲が驚くほど厳しいダメ出しをされている場面を見たこともある。幕がないコンサートホールでオペラを上演した際は、舞台転換もお客様に見られるので、舞台転換そのものをリハーサルしたことがあるし、テレビの収録があれば、別途カメラリハーサルが行われるのが常識だ。

 リハーサルがお国柄や個人によって様々なのも楽しいが、その合間の食事はさらに個性的だ。それは次回詳しく触れることにしよう。本番以上にリハーサルと食事は、演奏者の素顔が見れて面白いものだ。

(すぎジイ)

2024.03.26

あかんちょうのつぶやき「柳に風」100

ロビーマネジメント終演

 コンサートや能・狂言の公演本番当日は、館長としてロビーに立つ。ロビーマネージャーとしてご来場のお客様をお出迎えし、終演後はお見送りをさせていただく。 休憩時はトイレを利用される方やカフェやお茶席でくつろぐ方を見守り、様々な質問を受けて対応する。 客席内が暑かったり寒かったり、携帯の着信音や買い物袋のガサガサ音に対するクレームは言うに及ばず、前に座っている人の帽子で舞台が見えにくい、隣の人の香水の匂いがきつい、演奏に合わせて体を動かしている人が気になる等々、数えきれないほどだ。 驚いたのは、客席でお好み焼きを食べている人がいて、近くのお客様が教えてくださったこともある。

 ロビーに立っていて何よりも嬉しいのは、公演を終えて感動した時の喜びの声を直接、具体的に聞けることである。 目に涙を浮かべて話してくれる方がいれば、大興奮して顔が思い切りこちらに近づいてくる方もいる。 中には、この「あかんちょうのつぶやき」を読んだ感想を聞かせてくれたり、館長として演出上舞台に登場した時にエールを送ってくれたこともあった。

 2024年3月末、役職定年で館長職を降りる。 これまでお会いしてきたたくさんのお客様に感謝の気持ちでいっぱいだ。 皆さま、6年間、ありがとうございました。

(あかんちょう)

 

2024.03.06

あかんちょうのつぶやき「柳に風」99

オルガニストは酒豪?

 パイプオルガンを演奏する人の職業をオルガニストと言う。しかも、コンサートホールや教会には、専属のオルガニストがいる。もちろん、豊田市コンサートホールにもホール専属のオルガニストがいる。

 ホールオルガニストの仕事は、日頃の楽器の弾き込みや点検をはじめ、オルガンに関するコンサートや講座などの企画や演奏、さらには子ども向けのオルガン体験イベントや教室など実に多岐に及ぶ。さらに、オルガンという楽器は他の楽器と違い、ホールや教会によってすべて異なる個性を持つので、コンサートを開催する際には、自ら演奏する場合も他のオルガニストを招聘する場合も、必ず事前に会場入りしてそのオルガンの仕様に合わせて慣れ、音色を決めるレジストレーションという作業とリハーサルが必要だ。

 それらは、ほとんどの場合、本番の数日前から宿泊して昼夜行われることが多いため、必然的に作業後に外食することとなる。お酒に強くなるのももっともだろう。来館した多くのオルガニストがそうであったように、当ホールのオルガニストも例外なくかなりの酒豪である。何度か隣の席でご一緒したことがあるが、楽しく歓談してふと横のグラスに目をやると大抵カラになっている。慌ててお注ぎ申し上げるというわけだ。いい気になって同じペースで飲もうものなら、気がついた時には大変なことになるのである。

(あかんちょう)

 

2024.02.27

あかんちょうのつぶやき「柳に風」98

碁は調和

 10年ほど前、家内の知人から上質な碁盤と碁石をもらったのをきっかけに碁を習ったことがある。ヨチヨチ歩きの15級程度の腕前だ。

 その魅力は、昭和の大名人・呉清源の言葉「碁は、争いや勝負と言うよりも、調和である」そして「相手の着手に依存してこちらの着手が決まる相互依存」に惹かれて、一時期すっかりハマってしまった。下手は下手なりに、碁盤に向かって打っていると余計なことを忘れてすっかり夢中になってしまうのだ。そういう意味ではストレス発散にもなるだろうし、頭の体操にもなる。

 初めて地元の公式戦「囲碁まつり」に出場した時は、13路盤のDクラスで3勝4敗。面白かった。碁は実に奥深く、小さな碁盤に展開される小宇宙。東洋の神秘だと思う。

(あかんちょう)

2024.02.10

あかんちょうのつぶやき「柳に風」97

循環に生きるアイヌの芸能

 アイヌの人々は、老人が認知症になると「神の言葉を話し始めた」「神に近づいてきた」と言って敬うそうだ。なんと豊かな世界観ではないだろうか。

 2023年、能楽堂で見る日本の伝統芸能シリーズで「アイヌの芸能」を企画、開催した。豊田市能楽堂開館25年目にして初めて実現した悲願の企画である。これまで、芸能立国と言われる沖縄の芸能や奄美の島唄なども上演してきたので、北方先住民族のアイヌ独自の芸能もいつか取り上げてみたかった。

 今回は、アイヌの人たちの精神文化と生活に根ざした歌や舞踊を口承文芸の名作の朗読も交え、しかも、伝統的な古式舞踊と現代的アイヌ音楽の両方を楽しめる構成とした。北海道は白老町の白老民族芸能保存会の皆さんをはじめ、現地に行かないと観ることができないアイヌの芸能を生で味わうことができた貴重な機会であった。

 動物、魚、草木… 大自然、いただいたものを還す。カムイ(神)とアイヌ(人間)が、循環の中に共に生きる深い感動を覚える。この日、豊田市能楽堂に確かにカムイが舞い降りたような気がした。

(あかんちょう)