スタッフのつぶやき
2023.11.08
あかんちょうのつぶやき「柳に風」91
要件を聞こう
かつて、フレデリック・フォーサイスの最高傑作「ジャッカルの日」を読んで国際スパイ小説に開眼したが、実はその背景には、ゴルゴ13の存在があった。20代の頃、僕はビジネス書として漫画「ゴルゴ13」を読んでいた。狙撃手ゴルゴに殺人を依頼する依頼主が、回りくどい説明をすると必ず「要件を聞こう」と一言。彼の仕事のスタイルは、結論から切り出す、徹底した下調べと事前準備、驚くべきリスクマネジメント、標的を外さない、クロージングは瞬時に、仕事の後はきれいに、ということだ。
ゴルゴは究極まで人間を信じないが、そこには人間というものは簡単に豹変し、裏切りもする悲しく愚かな存在であることが通底している。裏を返せば、それを事実と受け止めることによる作者さいとうたかお氏の厳しくも温かい眼差しが表裏一体になっていると思う。
真実のみを信じ行動するゴルゴに貫かれたもの、作者さいとうたかお氏からの問いは何だったのか。今では想像するのみだが、少なくとも「要件を聞こう」の中には、人間とは何かを深く問い続ける視線が描かれているのではないだろうか。
(あかんちょう)
2023.10.25
あかんちょうのつぶやき「柳に風」90
人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である
(チャーリー・チャップリン)
これは、喜劇王と言われたチャップリンの名言だ。
路上を颯爽と歩くオジサンがおかしな恰好で転倒したら、思わず笑ってしまうかもしれない。だが、そのオジサンの服が破れたりしたら、思わず悲しくなってしまうだろう。悲劇と喜劇は常に紙一重なのだ。また、自分の過去に起きた悲しいできごとを、人生全体で捉えてみれば笑い話として受け止められることもある。喜劇王チャップリンの映画を観ると、自分の視点がクローズアップとロングショットの間を行き来する。
鋭い社会風刺が込められ、ユーモアと同時に貧困に喘ぐ市民の怒りや哀愁が、涙とともに描かれたチャップリンの名作無声映画を、オーケストラの生演奏付きで観るという企画をコンサートホールで上演したことがある。元々音がない映画に音楽が入り、様々な効果音で臨場感を高めたものだ。オーケストラの楽員さんに聞いた話では、ガラスを割るシーンを最高に演じるために、様々なガラスを何枚も割って試し、究極のガラスを見つけたというエピソードもあるらしい。
そのような努力の賜物で、チャップリンの映画はハンカチなくしては観ることができない。人生をクローズアップして見るか、ロングショットで見るか、それは私自身にかかっている。
(あかんちょう)
2023.10.12
あかんちょうのつぶやき「柳に風」89
民族音楽のパフォーマンス
純粋なクラシック音楽、いわゆる“純クラ”ではなく、世界の多様な音楽を紹介する「世界音楽の旅シリーズ」という企画を続けている。これまでに、ニューオリンズ・ジャズ、イタリア・カンツォーネ、ジプシー音楽、ブラジル・サンバ・カーニバル、フラメンコ、バリ島のガムラン音楽、ハワイアン、ブルガリアン・コーラスなどなど、多種多様な民族音楽の企画を発信してきた。
純クラとは違い、思わぬハプニングが起きるなど予期せぬことが多く、ある意味面白い。例えば、ニューオリンズ・ジャズはコンサートの終盤に演奏者がお客さんを煽ってステージに上げてしまった。次から次へとお客さんがステージに上り大盛り上がり。また、ブラジル・サンバでは、女性ダンサーたちが肌を露出した現地カーニバルの衣装で客席の通路まで出てきて、腰を振って踊りまくり、目の前に座っていたお客さんは目と鼻の先で女性のお尻が揺れ、目のやり場に困ってしまっていた。バリ島のガムランと舞踊の時は、演奏者が演奏中のバイブレーションでトランス状態から次々に陶酔・失神していく。失神した奏者には水をかけて目を覚まさせ、またステージに戻って演奏を続けるという荒技だ。ジプシーバンドのヴァイオリニストは、常時2,000曲の音楽が身体に入っており、いつでも流しのように自由自在に演奏できると豪語していた。
民族音楽は、その音楽性やパフォーマンスが実に豊かで多様、何が飛び出すかわからない。そこがまた面白いからやめられないのである。
(あかんちょう)
2023.09.29
あかんちょうのつぶやき「柳に風」88
五色の幕と五大元素
能楽堂の橋掛かりの奥には、舞台に彩を添える五色の幕が掛けられている。色の違う緞子を縦に五枚並べて縫い合わせたもので、配色は緑・黄・赤・白・紫の五色。まるで野菜サラダのようだ。能楽堂によっては三色や四色の幕が掛けられているところもある。この五色の配色は、寺院に掛けられる五色幕や建物の上棟式で揚げられる五色旗と同じだが、仏教の五大要素の思想に基づくとも言われている。
仏教では、地球上あるいは宇宙の全てのものは、空・風・火・水・地の五つで構成・調和されていると考えられ、これを五大要素または五大元素という。緑が「空」、黄が「風」、赤が「火」、白が「水」、紫が「地」を意味し、空は無限の広がり、風は自由と自在、火は浄化、水は潤いや流動性、紫はゆるぎない大地を表現しているようだ。
能の出演者が登場したり退場する時に、この幕を揚げ下げして使うある種の結界だが、その時、この能舞台は過去・現在・未来を一瞬にして表現する壮大な宇宙空間になるのかもしれない。
(あかんちょう)
2023.09.13
あかんちょうのつぶやき「柳に風」87
現代曲は聴かなければ損
クラシック音楽の現代曲は、聴くことを敬遠されることが多い。古典作品と違い、不協和音が多かったり、慣れないリズムや緩急などにより聴く側に焦燥感や緊張感が強いられることもあるからだ。コンサートホールで行われる演奏プログラムも、どちらかといえば現代曲や新作は控える傾向がある。ただ、時には衝撃的な出会いがあり、現代曲に魅了されてしまうこともある。豊田市コンサートホールの企画でも何度かそういう出会いがあった。
その最たるものは、2012年、ヴァイオリンの鬼才ギドン・クレーメル率いるクレメラータ・バルティカというラトヴィアの若手演奏家たちによる室内アンサンブルのコンサートだ。プログラムの大半が現代の作曲家による作品で構成され、うち1曲はミェチスワフ・ヴァインベルクという舌を噛みそうな名前のポーランド人作曲家で、日本初演であった。この曲を含め、この日の演奏はどれも素晴らしく、全く知らない曲であるにもかかわらず、ぐいぐい弾き込まれ圧巻の演奏であった。曲がいいのか演奏が素晴らしいのか。どちらもいいのだろう。いや、演奏家の力量が、曲の魅力を最大限に引き出したのかもしれない。この時ほど、現代曲の魅力に驚いたことはなく、衝撃的な出会いであった。
他にも、エストニア国立男声合唱団(いずれもバルト三国の演奏家だが)による現代曲のコンサートでは、演奏は言うまでもなくそのアイデアがユニークだった。演奏中に演奏者全員が小さな紙袋を一斉に叩いて鳴らしたり、手に持ったワイングラスの淵をなぞりながら音を発する、客席の四方に分散して山びこのように歌うなどその意表を突いた演出が実に面白かった。ピアノ、弦楽四重奏、パイプオルガンなど、鮮烈な新作との出会いはたくさんある。
現代曲は、実はとても魅力にあふれており、聴かなければ損なのである。
(あかんちょう)
2023.08.24
あかんちょうのつぶやき「柳に風」86
蝉は 春・秋を知らない
8月、一心に鳴く蝉の声を聞くと、毎年必ずこの荘子の言葉「蟪蛄(けいこ)春秋を知らず、朝菌は晦朔(かいさく)を知らず」が身にしみて思い出される。
ひと夏を精一杯に生き、いのちを輝かせて死んでゆく蝉。夏だけを生きている蝉は、春・秋を知らず夏だけを知っている、のではなく、実は、今が夏という季節だということを知らないということだ。朝だけに生まれる菌(キノコ)は、夜を知らないのだから、朝菌というキノコは、今が朝だということを知らない。翻って、僕たちはどうだろうか? 今しか知らない者は、今も知らない。今がどういう時間なのかわからない。夏を迎えるたびに、繰り返す問いだ。
今が夏であることを知るためには、夏を越えて、秋や春という季節があることを知っていなければならいというわけである。「自分のことは自分が一番知っている」とよく言うが、実は自分については、自分のことばかり見ていてもわからない。自分の本当の姿を知るためには、自分を越えたものに触れなければならないとは言えまいか。
短いひと夏を懸命に生きていのち終えてゆく蝉を見る時、蝉のように自分は生きているか、ただただ厳粛な気持ちになってくるのである。
(あかんちょう)
2023.08.12
あかんちょうのつぶやき「柳に風」85
世界の三大長編小説
高校時代の世界史の教師に、一生の間に読むべき世界の三大長編小説を教えられ、読んだことがある。もちろん、恩師の独断と偏見によるものだが、博学多識であったが故に信憑性は高い。
その三大長編とは、まずドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、そしてセルバンテスの「ドン・キホーテ」、3つ目は中国・羅貫中の「三国志演義」である。当然これ以外の小説を推す輩もいるかもしれないが、なにしろ独断と偏見なのでお許し願いたい。
人類文学の最高傑作とも言われる「カラマーゾフの兄弟」は、作家の村上春樹氏が、<世の中には二種類の人間がいる。「カラマーゾフの兄弟」を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。>とまで書いているほどだ。その魅力は一言ではとても言い表せないが、人類に共通する永遠の悩みをどう受け止め、答えを出していくか、その問いと答えが多様な人間模様の中から描かれていることだろう。
三大長編小説いずれも、若い頃そしてある程度年齢を重ねてから幾度か読んだが、非常に読み応えがあり、常に発見がある。様々な登場人物の生き方を通して、人間とは何か、生きるとはどういうことかを深く考えさせられたものだ。
今、あれだけの大作に真っ向から挑むのは至難の業だろう。年を追うごとに、気力と体力そして集中力が衰えていくと長編小説を継続して読めなくなってくる。ついつい短編に走ってしまいがちだが、まあそれも自然の流れかもしれない。長編小説は、ぜひ若いうちに読んでおきたいものである。
さて、今日も短編小説を読むことにしよう。
(あかんちょう)
2023.07.23
あかんちょうのつぶやき「柳に風」84
ろうそく能の秘密
能舞台の周囲にろうそくを立て、照明器具の代わりにそのほのかな灯りで鑑賞するのがろうそく能だ。かつて薪能が雨天で実施できなくなった時に、室内に移動してろうそくの灯りで上演したらどうかと、能楽堂の若手職員がつぶやいたのがヒントになった。
さて試してみると、ろうそくの灯りは雰囲気としてはいいのだが光量が足りないため、暗すぎて肝心の舞台上の動きが見えづらい。通常の電気照明を少し当ててみるが、いかにも照明を足しましたということになってしまう。そこで考案したのが、ろうそくの灯と同じ位置から光を当てるという方法だ。ろうそくを立てる鉄製の燭台に特製の穴をあけ、そこに電球を仕込んだ。調光も効くようにし、ろうそくに点火するとぼんやり明かりがともる仕掛けができた。同じ位置から光が出ているので、客席から見れば、ろうそくの灯りだけで舞台上が照らされているように見える。あとは天井前方からのライトでわずかに補充し、鑑賞にも耐えうる雰囲気のある照明を作ることができた。
ろうそく能に合う演目は、やはり夕方や夜の場面の物語が相応しい。豊田市能楽堂で最初に上演したのは、真夜中が舞台の「鉄輪」。以後、「清経」「葵上」「天鼓」「安達原」「藤戸」「夕顔」ほかたくさん取り上げてきた。ユニークだったのは狂言「死神」で、話の中に登場人物がろうそくの火を吹き消す場面があるが、これを実際に本物のろうそくの火を吹き消すという演出で行ったことである。臨場感があり実に面白かった。
またある時は、本番上演中に地震が起きたことがある。かなり長い時間に感じられ、ろうそくの燭台もガタガタ揺れたので、思わず飛び出して行って火を消そうかと迷った。幸いしばらくして地震は収まり、能もそのまま演じられたのだが、身の縮む思いがしたものだ。
ちなみに後日談として、その時舞台上にいたある能楽師の方は、「あの時、一人でもお客さんが逃げ出したら、ワシも一目散に逃げ出そうと思っとった」と平然として見えた心の内を話してもらった。幽玄だけでは済まないこともあるのだ。
(あかんちょう)
2023.07.07
あかんちょうのつぶやき「柳に風」83
ユーモアのセンス
何事においてもユーモアを大切にすることをモットーにしている。
米国のサウスウエスト航空は、ユーモアを何よりも重要視している会社らしいが、そのユニークな機内アナウンスは有名だ。
「皆様、只今から座席ベルトの着用方法についてご説明いたします。皆様の安全のため、離着陸時には必ず座席ベルトをお締めください。どうしても、ベルトを締めるのは嫌だというお客さまはご遠慮なく客室乗務員にお申し出ください。そのようなお客さまのためには、特別なお席が用意されております。翼の上でございます。また、そのお席では、特別な映画がご覧いただけます。映画のタイトルは“風とともに去りぬ”でございます」
驚くことにこれは実際に流れたアナウンスのようだが、同じことを日本の航空会社が行えば、間違いなく大クレームが殺到するだろう。サウスウエスト航空では、とにかく「乗客に空の旅を楽しんでもらうこと」を従業員に推奨しているらしく、採用試験でもユーモアのセンスを重要視しているとのこと。人間は緊張しすぎる方が大きなミスをしがちだと思う。重要な仕事であればあるほどユーモアの意義は深い。ましてや、苦しみや悲しみ、挫折や落胆を味わった時こそ、その精神は必要だ。ドイツにおけるユーモアの定義とは「にもかかわらず、笑うこと」だという。
常に心に余裕を持てるユーモアの精神を大事にしたいものである。
(あかんちょう)
2023.06.21
あかんちょうのつぶやき「柳に風」82
夏至 ― 夏の夕べのそよ風 ―
夏至の日は、ことに19時を回った日没後の空が美しい。
毎年夏至を迎えると、かつて旅行したフィンランドの白夜の感動が蘇ってくる。かの地の酒場でひとしきり飲んで歌って、さて帰ろうとして屋外に出たらまだまだ夕方の明るい空。ではもう一軒行くかと時計を見たら、夜の22時過ぎだったことを覚えている。白夜の初体験だった。夏至の明るい空を見上げると、あの白夜のことを思い出す。
その夏至の日に毎年必ず聴きたくなる曲がある。それは世界で最もこの日に相応しいと勝手に思っているお気に入りの曲で、フィンランドの作曲家レーヴィ・マデトヤの男声合唱曲『Suviilan vieno tuuli(夏の夕べのそよ風)』とオスカル・メリカントの「夏の夜」というピアノ曲集の中の小品『Valse Lente(ゆるやかなワルツ)』である。
美しい夕映えを眺めつつ哀感漂う曲を聴けば、心地よい風とともに、白夜の静寂な湖畔に身を置いているような気分になってくる。
(あかんちょう)
2023.06.13
あかんちょうのつぶやき「柳に風」81
大切に聴きたい音楽
大切に聴きたい音楽と演奏家がいる。クラシックギタリストの村治佳織さんと村治奏一さんだ。お二人が奏でる音楽は、いつでも、どこでも、誰とでもではなく、心を落ち着けて静かに噛みしめるように大切に聴きたいといつも思う。ギター弦をはじくその一音一音が、小さな宝石のように煌めき、流れる音は美しい天の川のように僕らを包み込む。光り過ぎずかすむことなく、そのほどのよさがたまらない魅力だ。姉弟二人によるコンサートでは、クラシックギター曲の代名詞ともいえるスペインの「アルハンブラの思い出」やジャズのスタンダード・ナンバー、胸に迫る映画音楽のテーマ曲、バッハやショパンなどクラシックの名曲、タンゴの革命児ピアソラもあれば、絶妙なアレンジの日本の童謡メドレーなど、その演奏領域は実に幅広く、プログラム構成の妙と素晴らしさに驚かされる。デュオはもちろんそれぞれのソロもあり、間に柔らかなトークが入る。優しく、さりげなく自然で、色彩豊かで、温かく、情熱的でありながら時に儚く美しい。とても素敵なひと時になる。
初めて、クラシックギターのコンサートにいらしたあるお客様が、ギター演奏はもちろんだが、その全体の時間の流れのほどよさにとても深い喜びを表現して帰られた。
村治佳織さんと村治奏一さんの音楽は、大切に聴きたい気持ちになる。
(あかんちょう)
2023.06.04
あかんちょうのつぶやき「柳に風」80
イタリア映画と能
イタリア映画は能に似ている。
先日、「帰れない山」というイタリア映画を観た。世界39言語に翻訳された同名の国際的ベストセラー小説を映画化した作品だ。北イタリアの雄大な山麓を舞台に、都会育ちの繊細な少年と牛飼いをする野性味あふれた少年が出会い、大自然の中で親交を深め、葛藤しながら、やがて「ありのままの自分でいられる場所」を二人それぞれ発見していく。どこか懐かしく、静かに心揺さぶられる物語である。
ハッピーエンドではなく、かといって救いようのない悲劇でもない、どことなく切なく、深い問いを残して終わる。そこが、能に似ているのだ。能は、一般に悲劇で、人間の苦悩や悲しみを描いている。登場人物を通して、昔も今も変わらない普遍的な人間の姿を表現しており、深く考えさせられる。
昨年、「求塚」という能の上演後、あるお客様が「今日の能は、問いを与えられたというその一点で非常に優れた演劇だったと思います」と語って帰って行かれた。私たちは、何事にもすぐに答えを出そうとするが、答えを求めるのではなく問いを与えられるということに重きを置くことが、むしろ人生を深く生きることにつながるのではないだろうか。
イタリア映画は能に似ていると思う。
(あかんちょう)