スタッフのつぶやき

2023.03.25

あかんちょうのつぶやき「柳に風」75

花びらは散っても、花は散らない

 とても好きな言葉だ。

 9年前、親父が亡くなった時、花びらは散った。深い喪失感と悲しみを感じたが、年数が経つうちに、花は散らないと思うようになった。実存する親父はなくとも、廻向として今僕と共に生きている力強い豊かなものを感じるようになった。だから、花びらは散っても、花は散らない。

 毎年この季節になると、定年退職される方にもこの言葉をお贈りすることにしている。形の上で別れがあり、姿カタチは消えてなくなっても、その人の言葉や考え方や生き方、その人が職場に残した影響や爪痕は残った人たちの心の中に花となって咲き続けるだろう。いや別れがあるからこそ、深いところで共に生きていると言ってもいい。

 3月、多くの花びらが散るだろうが、花は散らない。

(あかんちょう)

2023.03.05

あかんちょうのつぶやき「柳に風」74

弦楽四重奏を聴く効能

 合唱指揮者の松原千振氏によれば、「音楽、特にハーモニーの感覚を養い、耳を鍛えるには弦楽四重奏曲をたくさん聴くのが一番」とのこと。それもハイドンとモーツァルトがいいらしい。

 弦楽四重奏は、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1という4つの弦楽器による合奏で、最もシンプルでありながら限られた音色の中で多彩な表現力に挑む組み合せだ。文豪ゲーテはこれを「4人の理性的な人間の対話」と表現した。”理性的な”というのがポイントだろう。そうでなければ、ハーモニーは乱れてしまう。

 ハーモニーの感覚を養うという視点で言えば、つまり同質楽器のアンサンブルであるがゆえに、音楽の骨格を純粋に味うことができ、しかも調和のとれた究極の音のバランスを体験できることが大きいのだろう。また、交響曲とは逆に編成がミニマムで演奏者同士の緻密な連携が必要とされることから、クラシックの重要なジャンルとして多くの作曲家が力を入れて作品を残している。なかでもハイドンは先駆者で70曲近い弦楽四重奏曲を作曲しており、いずれも粒ぞろい。緩急自在で安定かつ伸びやかな特徴にあふれている。

 まさにSimple is Best! ハーモニーを感じる感覚と耳を鍛えるには、弦楽四重奏を聴くことだ。

(あかんちょう)

2023.02.23

あかんちょうのつぶやき「柳に風」73

鏡板の松にみる悠久の刻

 鏡板とは、能舞台の正面奥の板のことだが、そこには老松の絵が描かれている。豊田市能楽堂の老松は、日本画家の田渕俊夫先生に描いていただいたものだ。先生の作品は、端正なデッサンに柔らかい色彩を施した丁寧な風景画が多いが、どこか人間の息を感じる温かみのあるところが好きだ。以前、「悠久の刻」と題された田渕俊夫展に行ったことがあるが、忙しくしていた日常の中でふと立ち止まり、ゆったりと悠久の刻を感じる実に豊かな時間であった。

 先生が鏡板の松を描くのは初めてのことであったらしく、皇居前広場や高松の栗林公園など、あちらこちらの松を見に行かれたり、東京のいくつかの能舞台の鏡板を直接見に行くなどして、イメージを創っていかれたと聞いた。個人的には、松ぼっくりまで繊細に描かれた落ち着いた先生の老松はとても気に入っている。開館して間もない頃はまだ白っぽく見えた板の色も近年は徐々に深みが出てきて、葉の緑や幹の茶の色が実に色濃く美しく映え、風格すらも感じられる。

 世阿弥の言葉に「命には終あり 能には果あるべからず」とあるが、多くの方がその前で演じ、多くの方が観続ける鏡板の老松にも果てはなく、文字通り「悠久の刻」を刻んでいくだろう。

(あかんちょう)

 

2023.02.12

あかんちょうのつぶやき「柳に風」72

罪業深い悲しみの中にこそ、最も美しいものが存在する

 能楽師の通夜・葬儀に参列すると、僧侶の勤行の後に能楽師らによる能「江口」の一節が謡われる。<思えばこの世は仮の宿、仮の宿に心を留めてはなりません… 遊女はそう告げて立つやいなや姿は菩薩となり、光明の中に白雲に乗って西方浄土の空に行かれた。そのお姿はまことにありがたく思われることだ(口語訳)>と、亡き人を想えば、涙があふれる瞬間だ。

 曲名の「江口」の里は、大阪は淀川のほとり遊女の里。かつて西行法師が一夜の宿りを求めたが断られた。だがそれは、断ったのではなく、「このような仮の宿に執着なさらぬように」と、出家の身を案じた遊女が泊めるのを遠慮したのだった。夜もすがら、舞台に現れたのは三人の遊女たちが月光の中での華やかな舟遊びをする情景が現れる。哀れな遊女の境遇・生きざまをしっとりと謡い舞う場面だ。能面がことに美しい。

 自らの不浄と罪業を徹底的に認めた、その深い悲しみがあったからこそ、江口の君は菩薩に転じて救われたのだろう。実は、不浄なものの中にこそ、真に美しいものが隠れているのではないだろうか。

(あかんちょう)

2023.01.25

あかんちょうのつぶやき「柳に風」71

「小さな村の物語 イタリア」にみる理想郷

 BSの「小さな村の物語 イタリア」は、大好きなテレビ番組だ。イタリアの都会ではない地方の自然の美しい小さな村で、気候や風土に生活のリズムを合わせ、先人たちが築いてきた文化や伝統、家族や友人を大切にしながら心豊かに生きている人々を描く。それは、海辺の漁村であったり、雪に覆われた山間の寒村や一面ぶどう畑の農村であったり様々だ。村人たちの仕事も、農業、林業、バール、木工職人、テーラー、ピザ職人、村役場など、僕たちが忘れてしまった素朴で素敵な小さな物語が、仕事への情熱とともに静かに息づいている。番組のオープニングとエンディングに流れるカンツォーネ「逢びき」もノスタルジックな雰囲気を盛り上げていて、この番組を見るたびに、経済至上主義で見失ってきた本当の豊かさとは何か、人間本来の暮らしとは何かを考えさせてくれる。

 コンサートホールでも何度かカンツォーネを取り上げたことがあるが、必ずこの番組に登場するありのままのイタリアの小さな村の日常を思い出してしまう。特別でない普通の村人の生活、そこにこそ人生の理想郷が見出されてならない。

(あかんちょう)

 

2023.01.13

あかんちょうのつぶやき「柳に風」70

アイヌの豊かさ

 アイヌ民族は日本列島の北部、とりわけ北海道の先住民族のことだ。言葉は、日本語とは異なる独自のアイヌ語を話す。アイヌとは「人間」を意味し、対して「神」のことをカムイと言う。火の神、水の神、土の神、木の神、空の神、雨の神…、アイヌの世界では、自然界のものには魂が宿るとされ、身の回りのもの全てが「神」なのである。熊や魚なども人間の食にするため神と崇めもてなし、いただいた後は神の国に送る儀式としてくじら祭り、熊祭り(イヨマンテ)を行い、歌い舞い踊る。芸能の根本は常に厳粛な祈りなのだ。独特の刺繡や木彫り工芸も自然に寄り添い、神から与えられた仕事である。人間とは、人間以外の全てのものによって生かされていることを先祖から受け継いできたアイヌ人こそ、真に人間らしい人間なのかもしれない。

 以前ある人から、アイヌの人はお年寄りが認知症になると、「神の国に行かれた、神の言葉を話し始めた」と敬って言うのだと聞いて驚いた。常に神と共に生きるアイヌ、なんと豊かな世界ではないだろうか。

(あかんちょう)

 

 

2022.12.23

あかんちょうのつぶやき「柳に風」69

ないものがあるように見える狂言の至芸

 今年の冬はとにかく寒い。極寒と言ってもいい。北陸や東北の一部は記録的な大雪になっているようだ。師走の雪といえば、狂言に「木六駄(きろくだ)」という大曲がある。

 ある冬の日、奥丹波のとある主人が家来の太郎冠者を呼び、都に住む伯父に歳暮の品の薪と炭と酒樽を届けるよう命じた。大雪の中、太郎冠者は木六駄(六頭の牛に積んだ薪)と炭六駄(六頭の牛に積んだ炭)、合計十二頭の牛を一人で追いながら山道を行く。あまりの寒さに、途中、峠の茶屋で一杯飲んで暖まろうとするが、あいにく酒が品切れのため、ご進物の酒樽に手をつけ、つい一口二口と進むうちにとうとう飲み干してしまう。結局、伯父の所に着いた時には歳暮の樽酒は無く、言い訳をしなければならないことに・・・。

 空が真っ黒になって雪が降り、降りしきる雪の中を十二頭の牛を束ねて追っていくさま、舞台に登場しない牛がまるでその場に見えるように演じるところが至難の技だ。豊田市能楽堂では、当時米寿を迎えていた人間国宝・野村萬師や野村万作師の至芸で鑑賞できたが、実際にはいない十二頭の牛が舞台にはっきりと見えるようであった。

(あかんちょう)

 

 

 

2022.12.15

あかんちょうのつぶやき「柳に風」68

寅さんの味わい

 土曜日の夜、録画しておいた寅さんを観ながら一杯やるのがたまらない。
 映画「男はつらいよ」はBSで全49作品を放送し、現存の役者だけでなんと50作目も制作された。毎回登場するマドンナ役は、いずれも時代を代表する人気女優ばかりだが、そのマドンナに寅さんが旅先で恋に落ち、最終的にはふられてしまう。失恋した寅さんに、腫れ物にでも触るように接する葛飾柴又の団子屋の面々。結末はまたふらり一人旅へ出るという毎度お決まりのパターンだが、なぜかいつ観てもつい観入ってしまい、笑いと涙を誘う。
 山田洋次監督曰く、「頭も顔も悪い、学もお金もなく、家族もない」そんな男が人を支え人に支えられて、元気いっぱいに生きていった豊かな時代。現代に失われてしまった大切なものを、今こそゆっくりと味わいたい。
 寅さんには、人生の全てが詰め込まれていると思う。笑いと涙、つまり喜びと悲しみ、そして怒り、苦悩、安らぎ、無常観まで描かれている。寅さんは日本のオペラなのである。
(あかんちょう)

2022.11.25

あかんちょうのつぶやき「柳に風」67

やられたら やりかえさない

 映画音楽コンサートという企画を度々行ってきた。様々な名作映画の中の名曲を紹介していくものだが、必ず入っているジャンルが西部劇だ。

 その西部劇に「大いなる西部」という名作映画がある。米国テキサス。そこに広がる雄大な自然。ここ西部の人々は、彼らの住む広大な地を誇りとし、土地の奪い合いに余念がない。大牧場を有する村と村が、その生命線である水源地を巡って長年にわたり激しく対立してきた。そこへ、東部から船乗りの男が一方の村の娘と結婚するため、西部にやって来た。数々の挑発、暴力、軽蔑にも屈せず、平和な解決策を探る。挙げ句の果て、フィアンセに軽蔑されてさえも拳は振るわない。

 数年前に、「やられたらやりかえす、倍返しだ」というドラマが流行ったが、半世紀以上前の西部劇には、やられたらやりかえさない、真の紳士が描かれている。「大いなる西部」の原題は “The Big Country”。それは雄大な西部ということではなく、主人公にみる気高さ、冷静さ、勇気であろう。

 西部の男たちは海の広さを知らない。本当の紳士は、彼女の前で勇ましく喧嘩をしてみせる男ではないのだ。広大な自然の中で、人間がアリのように小さい。

(あかんちょう)

 

2022.11.11

あかんちょうのつぶやき「柳に風」66

文化の日は、開館記念日

 11月3日の文化の日は、豊田市コンサートホール・能楽堂の開館記念日だ。

 今から24年前のこの日、厳かにテープカットが行われ、下階の図書館に続き、能楽堂で弓矢立合、その後に五流派家元総出演による祝賀能、コンサートホールで日本を代表する室内オーケストラによるベートーヴェンの交響曲7番で産声を上げた。

 思えば、オープニングに至るまでの準備の数日間は、徹夜に近い日々が続き、人生の中であれほど仕事にどっぷり漬かった日々もなかったであろう。何事も最初が一番面白いと言われるが、無事オープンさせるために昼夜なく必死だったことが懐かしい。以後、毎年11月3日もしくは前後日に祝祭的な記念コンサートや記念能を上演。現在では決まったイベントこそないものの、やはり文化の日を迎えると記念日としての意識が高まる。今では、当時に生まれた子が成人を過ぎ、新人の職員として一緒に働くようにもなった。感慨深い。

 世阿弥の言葉に、「命には終りあり、能には果てあるべからず」というのがあるが、豊田市の、そして人類の宝ともいえるこのコンサートホールと能楽堂にも果てあるべからず、と心から思う。

(あかんちょう)

 

2022.10.28

あかんちょうのつぶやき「柳に風」65

餅投げ

 秋は収穫の季節だ。日本中の神社で秋祭りが行われる。

 巫女舞、太鼓の奉納と共に収穫物を奉納し、お下がりを皆で分配する古くから伝わる村の祭り。それは老若男女や職業、社会的地位も問わず、皆が一緒に祭りを営む大らかな世界だ。国際社会で国境をせめぎ合う世界からは無縁の村の時代の風景である。

 地元の神社では、小学生たちが神輿を担ぎ、子ども相撲や餅投げを行う。餅投げは、まさに「神饌の分配」の象徴だが、いつのまにかどこからともなく大勢の人々が集まり、我こそはと、必死に受け取ろうとする。人より多く取りたいという僕たちの習性から、短時間に人間性が丸出しになる。それでも現代に生き続ける餅投げは、終わった後に皆が笑顔になる。ほのぼのと懐かしい村の時代の共同体行事なのだ。

 実は経験上、餅は拾う方よりあっちこっち均等に投げる方が難しい。

(あかんちょう)

2022.10.07

あかんちょうのつぶやき「柳に風」64

一往復半の奥行き

 秋も深まり、ススキの穂を目にすると、必ず思い出される能の演目がある。能「井筒(いづつ)」だ。井筒とは、今ではほとんど見ることがなくなった、井戸の地上部分に木や石で作った囲いのことである。

 能は、旅の僧が大和の在原寺を訪れるところから始まる。ひっそり静まりかえった古寺の境内、井戸の囲いにススキが揺れている。かすかな月の光が射し込んでいた。そこに現れた一人の若い女。女はその昔、歌人・在原業平と井戸で背比べをして遊び、やがて恋に結ばれた話を語り始めた。夜がふけると、女は業平の形見の衣と冠を身に着けた男装の姿で現れ、昔を懐かしみつつ、静かに舞を舞う。そっと井戸を覗けば、そこには業平の姿が映る(実際には、業平の形見を身に着けた自分の姿なのだが)。男女一体となり心が疼き感極まる官能の瞬間。男の役者が女装して、その女装した女が男装して恋する女を演じる、という一往復半の奥行きの世界。果たして、恋の永遠性はありうるのか。

 豊田市能楽堂でもたびたび上演しており、秋になると観たくなる世阿弥の名曲中の名曲である。

(あかんちょう)