スタッフのつぶやき

2020.08.14

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑫

84歳の「愛のあいさつ」

 80歳を超えて、豊田市コンサートホールで3回リサイタルを行ったピアニストといえば、アルド・チッコリーニである。2010年、2012年、そして2014年を最後に、翌年89歳で尊いご生涯を終えられた。そのチッコリーニの最初のリサイタルで、驚くべき光景を目の当たりにした。

 プログラムのメインはムソルグスキーの「展覧会の絵」で、実に多彩な音色、輝かしい響きに会場は興奮のるつぼと化したが、さらに白眉はその後のアンコールだった。曲は、意表をついてエルガーの「愛のあいさつ」だ。この曲は、エルガーが婚約者のアリスに婚約の記念に贈ったという素敵なエピソードで有名だが、84歳の巨匠が奏でるゆっくりとした「愛のあいさつ」は、途方もなく甘く優しく、慈愛に満ちた演奏で、勝手に涙があふれてきた。

 ふと気がついて客席を見渡すと、夫婦やカップルと思われる二人組のお客様方が、あちらこちらで明らかに寄り添ったり、そっと手を握り合ったりしているのだ。それが普通に自然になされていた。長年コンサートホールに勤めていて、こんなことは初めての経験であった。84歳の巨匠による「愛のあいさつ」は、その場に居合わせた全ての人々を幸せにした大切なひとときであった。

 もちろん、私も手を握りたかったが、その場に相手がいなかったのはやむを得まい。

(あかんちょう)

2020.07.28

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑪

明るく歌えば歌うほど 悲しみが深くなる歌

 現在、NHKで放送されている連続テレビ小説『エール』の主人公モデルは作曲家の古関裕而だが、その作品に「とんがり帽子」という曲がある。私は、涙なくしてこの曲を聴くことができない。

 「とんがり帽子」は、戦後まもなく、古関が劇作家の菊田一夫と組んで制作されたラジオ・ドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌である。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた青年が孤児たちと一緒に信州の里山で共同生活を送り、明るく強く生きていく様子を描いたドラマで、大人子どもを問わず、多くの人の共感を呼んで大ヒットとなった。

 歌の出だしは、晴れわたった空と緑の丘をイメージさせる明るいメロディーなのだが、2番・3番と最後まで聴いていくと戦災孤児の歌だとわかり、思わず涙がこぼれてしまう。しかも、ドラマでは孤児たちが平然と明るく歌っている設定なのでたまらない。<鐘が鳴りますキンコンカン 鳴る鳴る鐘は父母の 元気でいろよという声よ> <おいらはかえる屋根の下 父さん母さんいないけど 丘のあの窓おいらの家よ> <昨日にまさる今日よりも あしたはもっとしあわせに みんな仲よくおやすみなさい>。歌い手が明るい声で元気よく歌えば歌うほど、悲しみが深くなり、どうしようもない感動に襲われる。

 明るい曲は、実は底知れぬ深い悲しみが作っているのである。

(あかんちょう)

2020.07.09

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑩

三十三間堂はパイプオルガン?

 豊田市コンサートホールのパイプオルガンは、米国のジョン・ブランボー社の製作だが、代表のブランボーさんは御年80ン歳の頑固な職人である。頭の中はオルガンのことでいっぱい。何を見ても聞いてもオルガンに結びついてしまう。豊田市のオルガン製作中における面白いエピソードを紹介しよう。

 ある時、休日を利用して京都観光に出かけた。有名寺院やその庭園を見て回る中に、三十三間堂があった。その観音堂に足を踏み入れた瞬間、ジョンさんは一言、「これはまさにパイプオルガンだ!」と大声を出して感激したという。あの有名な金色に輝く千体の千手観音像が、パイプオルガンに並ぶパイプ群に見えたのだ(笑)。千手観音像をパイプオルガンに例える人を初めて見た。

 そのジョンさんがこだわって製作した豊田市コンサートホールのオルガンは、16~17世紀のオランダと北ドイツの様式を丹念に調査したうえで、それを単にコピーするのではなく、現代の私たちが考えうる最高のオルガンを制作するということをモットーに作られたものである。ある意味では、非常に合理的な作品ともいえよう。その結果、世界中から来館される多くのオルガニストが大絶賛する音色と響きをもつ、今やパイプオルガンは豊田市の宝物なのだ。

 宝物を眺めているうちに、だんだん三十三間堂に見えてきた。

(あかんちょう)

2020.06.30

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑨

草木の精

 「自然を大切にしましょう」というのは、上から目線ではないだろうか。

 自然が先か人間が先か。地球が誕生したのが約46億年前、最初の生命が海中に誕生したのが38億年前、その後、陸上に植物が出現したのが5億年前と言われている。人類の誕生は恐竜時代が過ぎたさらに後で、約6500万年前にようやく霊長類として出現したのが始まりだ。自然に比べれば人間の歴史は、ほんの一瞬ともいえる。むしろ、自然の中から自然に支えられて生きてきたと言ってもいいくらいで、自然と共生していくのが本来だろう。

 能には、草木などの自然が植物の精として登場する演目が結構ある。「西行桜」「遊行柳」「杜若」「半蔀」「東北」・・・。「西行桜」は西行と歌の問答をかわした老桜の精が登場し、「遊行柳」は西行に歌を詠まれた老柳の精が舞を舞う。「杜若」は杜若の花の精、「半蔀」は夕顔の花の精、「東北」は梅の精、「六浦」は楓の精。「胡蝶」は梅の花に戯れる蝶の精だ。いずれも草木や虫の精が美しい女性や年老いた男の姿で登場し、ある時は優雅に、ある時は閑雅に舞を舞う。昔から能では自然と人間が共に生きていたのだ。

 今、静かになっている能舞台。早く能を上演して、草木の精に遇いたいものである。

(あかんちょう)

2020.06.17

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑧

人種差別と音楽

 アメリカが大変なことになっている。いや、アメリカだけでなく欧州にも拡大した。コロナではない。白人の警察官がアフリカ系米国人を拘束して死なせてしまった事件に端を発して、人種差別に対する抗議デモが世界中に広がっている。コロナの時代、世界は分断の時代に突入してしまった。

 アメリカでの黒人への暴力は今に始まったことではないが、これだけ大規模な抗議デモは初めてで、しかも全世界で平和的なデモが動員数を増やし続けているらしい。この先の未来、世界はどこに向かっていくのか。本来アメリカは多様な民族の国なのに、まるで部族間の対立のようだ。人種による分断や憎悪は、どうしたらのりこえていけるのだろうか。

 音楽はそういう「分断」に対して、大きく世界を包み込んできた。例えば、ベートーヴェンが作曲した第九。ゲーテとともにドイツを代表する文豪シラーが26歳の時に書いた詩「歓喜に寄す」に感動したベートーヴェンが、この詩に曲をつけ、全人類が強調して実現すべき平和を理想として高らかに歌う壮大な世界を描いた。まさに今ほど、「抱き合え、何百万の人々よ」と歌い上げられる神・宇宙・自然・人類の全ての賛歌が必要な時はない。

 ただ、残念ながらコロナの影響で、今年の年末の第九は公演中止かもしれないが。

(あかんちょう)

2020.05.30

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑦

散歩とベートーヴェン

 新型コロナウイルスの影響で外出自粛や在宅勤務が増えたことから、運動不足の解消に三密を避けた散歩をする人が増えたような気がする。ご多分にもれず、私も休日には散歩をするようになったわけだが、あらためて自然の中を歩くと、川のせせらぎや鳥の鳴き声がとても心地よく聞こえる。

「忙しい人の前には、花は咲かない」という言葉があるが、日々慌ただしく過ごしている時には、気づきもしなかったことなど発見が多い。

 今年、生誕250年周年を迎えたベートーヴェンは、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットという静かな田舎町を散歩しながら、名曲「田園交響曲」を作曲したと言われている。そこには彼のお気に入りの自然な風景があり、そこから多くのヒントを得て曲ができあがった。小鳥の鳴き声はフルートやオーボエで表現され、小川のせせらぎや木の葉のざわめきなども聞こえてくる。まるで田園風景にたたずんでいるようだ。自然の流れとそこに生きる人間の感情が見事に絡み合い、自然と人間の調和を理想郷としてこの曲が作られたのではないかと思えてくる。

 さて、散歩に戻ってベートーヴェンを真似てみる。もとより私には作曲の才能などあるわけがないので、せめて言葉にして表現できないものかと、俳句で一句ひねり出そうとしてみたが、これがまた思うようにいかない。 

うぐいすの 姿を探す 木立かな

(あかんちょう)

2020.05.13

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑥

ソーシャルディスタンス

 フレデリック・フォーサイスのスパイ小説「ジャッカルの日」は、フランス大統領シャルル・ド・ゴールの暗殺を請け負った殺し屋ジャッカルと、これを阻止しようとするパリ警察の緊迫の戦いをリアリティたっぷりに描いた国際ミステリーだが、そのラストシーンが面白い。場面はパリの駅前広場、ナチス・ドイツ占領からの解放記念日の式典が行われている最中、ド・ゴール大統領が退役軍人の胸に勲章をつける瞬間だ。ジャッカルが頭部を狙って引き金を絞ったその時、大統領はひょいっと頭を下げて退役軍人の両頬に抱擁のキスをしたため、銃弾は命中せず石畳の表面を破壊。暗殺は未遂に終わったのである。抱擁のキスはラテン系民族の習慣なのだが、アングロサクソンであるジャッカルは不覚にもそれに気がつかなかったのだ。

 現在、新型コロナによる感染拡大は、欧州では特にイタリア、フランス、スペインに多いが、それがラテン系特有の濃厚接触の習慣も影響しているという記事を先日読んだ。確かに、北ヨーロッパの国々よりも感染者数の割合が高い。

 一方、日本はどうなのか。日本は元来、身体を触れ合うことで気持ちを表現する習慣がなかったが、高温多湿の気候風土の中では、密閉・密着は好まれず、風を通す「すきま」や適度な「間」が必要だったのではないだろうか。それはやがて「間」をとるという文化になり、「間が悪い」「間を置く」「間が持たない」など、常に「間」を意識した生活が定着してきたのだと思う。

 直接的で開放型、主役が抱き合う西洋のオペラと、間接的でエネルギーを内に込め、必要最低限の所作で感情を表現する日本の能・狂言を比べてみてもよくわかる。能や狂言は「間」を抜きにしては成り立たず、世阿弥の伝書『花鏡』には「せぬ隙は何とて面白きぞ」と書かれてあるくらいだ。茶道・華道・武道・和歌・庭園もみなそうだ。

 今、ソーシャルディスタンスという言葉が使われるようになったが、ここはひとつ、日本特有の「間」をとることを見直し、感染症の予防に活かしたい。「人間」という文字にも「間」が入っているではないか。

(あかんちょう)

2020.04.18

あかんちょうのつぶやき「柳に風」⑤

今しかできないこと

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、緊急事態宣言が発令された。豊田市コンサートホール・能楽堂も、大変残念ではあるが、7月までの公演をすべて中止させていただくことになった。

 文化・芸術の表現活動も危機的状況になる中、坂本龍一さんがTBS「報道特集」のインタビューで語った内容が印象深い。

 「人類が誕生して20万年くらい。これまで何度も絶滅の危機があったが、それを乗り越えて僕たちの祖先は生きてきた。その時に一度たりとも、アートや音楽や詩というものは途切れないで続いてきた。だからこそ、僕たちは今もそれらを持っているし、たとえ絶滅の危機であっても、人類はアートや音楽や詩を手放さないと思う。ちゃんと残して、絶対になくならないと思う。人間が生きていく上で失われることのないものだという確信を、希望かもしれないけど持ってほしい。そして、どう着地するかわからないけど、確実に世界は変わる。ゼロから考えるキッカケを与えられたのかもしれない。外出しない今のこの時間を、貴重な時間として大事に使いたい。これからの世界、生き方をよく考える機会にしたい。」と。

 パンデミックのトンネルはいつ抜けられるのかわからない。しかし、坂本さんが言うように、今は今の時間を生きるしかないのだ。世界の様々な仕組みが大きく変わるであろうことを見据え、今しかできないことを考え、今だからこそやれることに時間を使う。今こそが大事な時間であることに気づきたい。

(あかんちょう)

2020.04.04

あかんちょうのつぶやき「柳に風」④

3人のレンガ職人

 イソップ童話に「3人のレンガ職人」という話がある。

 ある旅人が田舎町を歩いていると、3人の男たちが道端でレンガを積んでいた。旅人が3人に「ここで何をしているのですか?」と尋ねると、1人目は「何って、見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだよ。毎日、これの繰り返しさ。」と不満げに答えた。2人目は「大きな壁を作っているんだよ。大変だけど、おかげでなんとか家族を養っていけるのさ。」という返事。3人目は「歴史に残る大きな教会を作っているんだ。ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払うことができるんだよ。」と、そこに訪れる人々の幸せまで考えていた。3人は皆、「レンガを積んでいる」という仕事は同じなのだ。さて、あなたの仕事ぶりは3人のうちどのレンガ職人であろうか。

 毎年4月1日、職場に新人を迎えると、必ずこの話を思い出す。どんな仕事や職場でも、いざ目の前の業務に取り掛かると大きな目的を忘れてしまいがちだ。今、世界は先の見えない大変な状況だが、コンサートホール・能楽堂は、いつもお客様に安心して喜んでいただけるおもてなしを考え、3人目のレンガ職人としてスタッフ一同仕事をしていきたいと思う。

(あかんちょう)

 

2020.03.17

あかんちょうのつぶやき「柳に風」③

「待つ」ということ

 新型コロナウイルスの影響で大変な状況になっている。医療機関の混乱はもとより、スポーツや文化等のイベント中止、小中高校の臨時休校、今週に入り世界各国における感染症拡大を懸念した封鎖のニュースまで入ってきた。経済的な打撃も大きい。

 豊田市コンサートホール・能楽堂ではこの3月中の主催公演は全て中止となり、施設を利用されるお客様もほとんどが催しを中止にされた。人が集まる場所の代表のようなコンサートホール会場としては、やむを得ないことであり、一刻も早い終息を祈るのみである。

 考えてみれば、世界のグローバル化によって人の移動は多くなり、情報通信のスピードアップ、便利で快適な生活のために経済を最優先にした環境破壊など、自然との共存を無視してきたことに、何か地球が叫んでいるようにも思えてしまう。

 身近なところで、スマホ、コンビニ、カードなど、スピード処理が優先される便利な現代においては、待たなくてもよくなり、「待つ」ということができなくなってしまった。しかし、今のこの状況は、感染症拡大が終息するのをじっと「待つ」しかない。窓の外では、何も知らないかのように穏やかな春の日差しに鳥のさえずりという自然の音楽。土からは春の花が、ゆっくり大きく背伸びをし始めた。

(あかんちょう)

2020.03.01

あかんちょうのつぶやき「柳に風」②

恐ろしい講座

 先日、作曲家でピアニストの加藤昌則さんを講師に迎えて、新感覚のレクチャー「大人のためのクラシック」全6回シリーズという講座が始まった。初回は導入編で、代表的なクラシック作曲家を数人取り上げ、その特徴をユーモアたっぷりに紹介した。この講座、なんと恐ろしいことに館長が登場するコーナーが設けられており、しかも何をやるのか知らされず、リハーサルもない。

 初回は、ドヴォルザークの交響曲「新世界」におけるシンバル奏者の大変さを体験してみなさいという内容だ。「新世界」は全4楽章のうちシンバル奏者が活躍する場面は、第4楽章の最初から2分ほどのところで、一発ジャーンと打つだけなのだ。それ以外はずっと座っているというある意味とても大変な役割である。打つ箇所を間違えたり打ち忘れたら、ハイそれで終わり。これを館長に体験してもらおうという講師の悪だくみだ。案の定思いっきり打ち遅れ、加藤さんは「ハイ、失敗しましたねー」とニッコリ(笑)。終演後は、お客様がこちらを見て妙にニタニタして帰って行かれるのにはまいった。

 このシリーズの講座、これからも毎回何かやらされるらしいが、実に恐ろしい講座である。

(あかんちょう)

2020.02.20

あかんちょうのつぶやき「柳に風」①

無用の用

 中国の思想家・荘子に「無用の用」という話がある。樗(おうち)と呼ばれる巨木があり、曲がりくねって節くれだっているため使い物にならないと言われていたが、荘子は「何故、その大木を広野の真ん中に植えて、大きな木陰の下、のびのびと寝そべって豊かな生を楽しまないのか。」と答えた。一見何の役にも立たないようなものこそが、実は大切な役割を果たしているということである。

 コンサートホールと能楽堂という文化施設は、銀行や病院、郵便局、スーパー、飲食店などに比べると、日常の市民生活の場において、どうしても必要なものではない。しかし、私たち人間は、人生における折々で苦悩し、悲嘆し、歓喜する。ベートーヴェンの音楽は苦しみのどん底から光が見え、世阿弥の能は死者の悲しみが浄化されていく。人間の情感を余すところなく表現する芸術に触れた時、私たちは身が震えるほどの感動を覚えることがある。それは、きっと生きる力を与えてくれ、かけがえのない時間となるだろう。

 令和の新しい時代、開館22年目を迎えたコンサートホール・能楽堂は、一人でも多くの方に「無用の用」の感動を実感していただきたい。

(あかんちょう)