スタッフのつぶやき

2021.08.07

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㊱

いつか来た道、いつか行く道

 毎年夏になると、「0歳からのパイプオルガン・コンサート」を開催している。0歳から入場でき、子育て中でなかなかコンサートに行くことができないお母さんにも聴いてほしいという願いで行っている好評の企画だ。

 このコンサートの名物は、ロビーに大量に並ぶベビーカーである。壁沿いにいろんな色や形をしたベビーカーがずらりと並ぶ光景は圧巻でさえある。今回、この光景を眺めているうちに、ふとあることを考えた。

 このお母さん・お父さんと子どもたちの関係は、40~50年先には間違いなく逆転することになる。つまり、今ベビーカーに乗っている子どもが、今度はお母さんやお父さんを乗せた車椅子を押すことになるだろう。そしてさらに歳を取れば、オムツを替えたり、ご飯の食べこぼしを拾ってくれたりすることになるだろう。「さっさとして!」なんて言われるのかもしれない。

 僕たちは、「いつか自分が来た道」を忘れ、「いつか自分が行く道」を他人事のように見ている。でもそれは全ての人に間違いなくやってくるのだ。大量のベビーカーを眺めながら、そんなことを考えた。

 ただひとつ、客席いっぱいの親子の中で、むやみに子どもを叱っているお母さんを見なかったことが妙に嬉しく、なにか温かい気持ちになった。

(あかんちょう)

2021.07.28

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉟

怪談は、幽霊が怖いのではない。人間が怖いのだ。

 これは、怪談噺を一言で表現した六代目一龍斎貞水師匠(人間国宝)の名言だ。

 夏は怪談の季節である。豊田市能楽堂でも、これまでに何度か上演している。日本の怪談噺ネタの代表格は、「四谷怪談」「牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」などだが、かつて能楽堂では、「四谷怪談」の一節をその一龍斎貞水師匠に語ってもらったことがある。

 師匠は「怪談の貞水」の異名を持ち、照明や音響を駆使した立体的な怪談で知られる。舞台で使う釈台には照明が仕込んであり、舞台を真っ暗にした時に、自分の顔だけがボ~ッと浮き上がるような仕掛けがしてあった。その日の本番、噺が核心に迫りその形相が薄っすらと青白く浮き上がった頃、突然一人の初老の女性が客席からロビーに飛び出してきた。本物のお岩か!とこちらも驚いたが、「ちょっと怖くなって座っていられなくなった」とのこと。主催者としては大成功である。

 終演後、師匠と話をした時に教えてもらったのが冒頭の言葉であった。怪談には必ず幽霊が出てくる。だが、本当に怖いのはその幽霊ではない。そこに動く、何をしでかすかわからない人間の心が怖いのだと。そこのあなた、幽霊ばかり怖がっている場合ではない。今、あなたの目の前にいる人は大丈夫ですか?

(あかんちょう)

2021.07.06

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉞

芸妓さんとお座敷遊び

 芸妓さんとのお座敷遊びは、文句なしに楽しい。

 豊田市能楽堂では、これまでに2回ほど楽屋の畳の間を使って名古屋の芸妓さん舞妓さんによるお座敷遊びを体験する企画を行った。いずれもチケット売り出しと同時に即完売。すぐにもう一回やってほしいとリクエストをたくさんいただいた。

 個人的にも、名古屋の芸舞妓さんのお披露目会に下見を兼ねてせっせと足を運び(笑)、踊りや唄に三味線などを楽しみながら、ついでにおビールも注いでもらった。ところが現在はコロナ禍。芸妓さんたちにお座敷の声はかからず、そのご苦労は半端ではない。

 今回、本来はお座敷で楽しむ踊りを能楽堂で鑑賞する企画を立てた。久々に芸を披露する彼女たちは、水を得た魚のように舞台全体を使って華やかに踊る。芸妓さんの踊りは、普通の日本舞踊と違い、崩し方が見事だ。自然な抜きといってもいいだろう。そこがハッとするような色気につながるのだ。ベテラン勢の端正で艶っぽい踊りに息を吞み、中堅勢の花も実もある舞台に舌を巻き、若い舞妓さんの可愛いらしさで完全に骨抜きにされてしまう。

 終演後、多くのお客様から、嬉しい一言をいただいた。この企画、ぜひ定期的にやってもらえませんか? ハイ、わかりました!

(あかんちょう)

2021.06.22

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉝

舘野泉さんと静寂のフィンランド

 ピアニスト舘野泉さんの音楽とフィンランドが好きだ。

 今から20数年前、大学の先輩の勧めで舘野泉さんを知った。まずCDを聴こうと思い、最初に買ったのは「アイノラのシベリウス」というタイトルだった。淡いグリーンのCDジャケットに木々に囲まれた作曲家シベリウスの別荘が映っているもので、数ある中から何故かこの1枚に惹かれて手に取ったのだった。“アイノラ”とはシベリウスの妻アイノが住む所という意味だが、シベリウスが後半生を過ごしたその山荘には彼が弾いていた所蔵ピアノがあり、その歴史的ピアノを舘野さんが弾いて世界初録音をしたのがそのCDだった。決して輝かしい音ではないが、素朴で暖かい自然な響きに魅了され、何回聴いたかわからない。

 CDのライナーノーツによれば、舘野さんは東京藝大を卒業後に渡欧して多くの国々を歩かれたが、フィンランドに最も心を惹かれたようだ。それは、美しい自然とどことない憂愁感のほか、ヨーロッパでありながらヨーロッパではない東と西にまたがるような独特の雰囲気のゆえだろうとのこと。若い舘野さんの心は、ヨーロッパの重い伝統やできあがった文化には興味がなく、日本と中央ヨーロッパのどちらにも適度なディスタンスを保てるところ、そして曲名に樹の名前がついているような音楽が自然に息づいていることに興味を持ったのである。

 確かに、シベリウスのピアノ曲には「樅の木」「白樺」「ポプラ」「ヒヤシンス」「カーネーション」など樹や花の名前がついている。モーツァルトやベートーヴェンやショパンと違い、普段シベリウスのピアノ曲を聴くことは稀だが、そこには北欧フィンランド特有の素朴な自然の美しさがそっと息づいている。もちろん自然の厳しさがあるように、ダイナミックで色彩豊かな表現もあるが、なにしろシベリウスはブリキの雨樋の音を嫌って、木の雨樋に変えさせたくらい、自然の音を大事にする人だったらしい。

 フィンランドでは、自然の静寂こそ美しい音楽なのかもしれない。

(あかんちょう)

2021.06.06

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉜

剣と能

 映画「るろうに剣心」を観るたびに、剣と能に共通する江戸時代の有名なエピソードを思い出す。

 ある日、江戸城中で能が催された。将軍家光が側に控えていた兵法師範、柳生宗矩に言った。「あれなる観世左近の所作を心して見よ。そして切りつける隙ありと見て取ったならば余に申すがよい」。

 さて能が終わって、家光よりの下問に、宗矩はこう言上した。「さすがは観世左近の舞に、寸分の間(隙)もありませなんだ。ただ一度、大臣柱の方に隅をとった時、拙者の打ち込めそうな、わずかな間がござりました」。

 一方、楽屋で観世左近が側の者に、上様の側におられた方はどなたか、と尋ねている。そして、名を知らされて、さこそと頷いた。「隅を取ったところで、実は私は少し気が抜けてしまったのだ。あのとき、かの仁がにこりとされたのが気にかかったのだが、なるほど、音に聞く柳生但馬守殿であったか」。

 おそらく、観世左近の舞に生じた、鵜の毛で突いたほどのわずかな呼吸の乱れ、 あるいは呼吸と姿勢とのかねあいの乱れを、宗矩の道眼は見逃さなかったのであろう。(柳生厳長「正傳新陰流」より)

 剣の達人柳生宗矩は、すこぶる能を愛したそうだが、そもそも柳生新陰流二世の柳生石舟斎宗厳と能の金春流宗家金春七郎は相互に秘伝を交換し合ったとも言われており、新陰流の伝書には、能のことばが散見される。

 一方、能の伝書「風姿花伝」にも『稽古は強かれ、情識はなかれ』とあるが、観客を感動させてやろう、相手に勝ってやろうという慢心や焦燥心は競争心につながり、上達の妨げになると説かれている。

 「剣と能」の極意は、深いところでつながっているのだ。

(あかんちょう)

2021.05.25

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉛

焦る照明操作

 「ステージを真っ暗にしてスタートしてください。1曲目の3小節目の1拍目で一気に明かりをオンにしてください。」 これは、カナディアン・ブラスという世界的な金管五重奏団のコンサートで、本番直前にマネージャーから指示された照明演出の要望である。その日、私は照明担当であった。失敗は許されない。急に緊張レベルが最高値に達してきた。リハーサルをさせてほしいが、他の曲ばかり練習していて、なかなか1曲目を取り上げてくれない。タイミングが狂ったら失敗だ。結局、2回だけ練習していざ本番。なんとか指示通りのタイミングでうまくいった。

 この時以上に緊張したこともある。本番の真っ最中に演出が変わったことだ。通常、コンサートの照明操作機器はコンピュータで制御されているので、明かりの演出やプランを機器に記憶させておくことができる。ある時、本番演奏中にマネージャーから「予定を変更して、次の曲は照明を少し落として始めたい。今の曲中に切り替えてほしい」とのこと。つまり、本番進行中の照明のまま、音響操作卓に記憶されている次の曲のデータをウラで修正変更して保存、準備するということある。切り替える瞬間に手違いで真っ暗になってしまったらどうする。実際それはないだろうが、一抹の不安がよぎる。指示通りにデータを変え、照明を転換。ステージは何事もなく明かりが切り替わった。ホッとした。

 コンサートの照明は、誰の目にも見えることなのでミスや間違いがあるとすぐにわかってしまう。普通に流れてあたりまえなのだ。音に集中するためには、照明が目立って邪魔をしてはいけない。あえて自然体の照明をどう作るか。それが、クラシックコンサートにおける照明の真骨頂ではないだろうか。

(あかんちょう)

2021.05.11

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉚

映画「晩春」と能「杜若(かきつばた)」

 小津安二郎監督の映画は、能のようだ。余白が素晴らしく、序・破・急もある。その小津監督の代表作「晩春」の中で、父親の笠智衆と娘の原節子が、 能楽堂で能「杜若」を観るシーンがある。客席で、娘が父親の再婚相手と顔を合わすという設定だ。能を演じているのは、先代梅若万三郎。タイトルの晩春とは、これからまさに杜若が咲き誇る初夏の季節と重なる。

 能「杜若」は、旅の僧が、杜若の名所である三河の国八橋にさしかかり、花に見とれていると、どこからともなく美しい女性が現れ、かつて『伊勢物語』の主人公の在原業平がここを訪れて歌を詠んだことなどを語る。やがて女は自らを杜若の精だと明かし、業平とその恋人であった二条ノ后の形見の装束を身に着け、そこに自分を重ね、往時を偲んで舞を舞う。なんとも艶やかな能である。

 なぜ、小津監督は映画「晩春」の中に能「杜若」を観る場面を作ったのか?  その謎は、映画を観た後に能を観ると解き明かされるだろう。といっても確かな答があるわけではない。

 杜若の花の精が、人間の男に恋をする能。それはある意味、実現できない禁断の恋とも言える。その能を、父への愛ゆえに再婚相手を恋敵に見出してしまう娘の葛藤に重ね合わせたのは、小津監督の巧みさではないか。

 五月、杜若の美しい季節にこそ、この映画と能を観たいものだ。

(あかんちょう)

 

2021.04.25

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉙

進化は退化 

 進化すると退化する。正確には、科学技術が進化すると人間は退化していく、ような気がする。

 パソコンで文章を打つ習慣が長いと漢字を思い出せなくなる。カーナビに頼ってばかりいると道が覚えられない。インスタント食品に慣れると微妙な味の違いが判らなくなる。スマホを紛失するとパニックになる。私たちが求めてきたものは、「便利」で「快適」な「豊かさ」であり、それはつまり速く、楽に、思い通りにできることであったが、その結果、私たちの五感は鈍くなり、本来持っていた感性や能力が衰えてしまったことに気がつく。日常生活が便利で快適になれば嬉しいことではあるが、その時間を省略していく生き方は「生を営む、時を紡ぐ」ということからはほど遠いことになるだろう。

 そんなことを考えていたら、「不便益」という言葉に出遇った。あえて不便なモノ、不便な方法を取り入れることにより、便利さよりも得るものがあるという発想だ。デジタルよりもアナログに魅力を感じてしまう世界観にも通じるかもしれない。クラシック音楽のSPレコードを蓄音機で聴くというマニアックなコンサートを何度か体験したことがある。針をレコードに落とす瞬間の緊張、音が流れるまでの固唾をのむ時間、そしてリアルで豊潤な音楽。その音質の素晴らしさに生のコンサートに匹敵する感動を覚えたものだ。目をつむって音に集中すると、歴史的なオペラ歌手マリア・カラスやエンリコ・カルーソーが、まるで目の前で歌っているかのようだった。そのブレスの音まで生々しく聴こえるのだ。CDやYoutubeではこうはいかない。

 ワンタッチで再生できるデジタルと違い、手間がかかる蓄音機での再生だが、そのアナログの音質的な魅力は容易には超えられないだろう。進化は退化なのである。

(あかんちょう)

2021.04.10

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉘

少年よ がんばる なかれ

 4月は入学式・始業式・入社式など、新たな門出の場が多い。

 身の引き締まる新鮮な気持ちで、校門をくぐり教室に入る、あるいは会社に入って研修を受ける、そういう人たちが全国にたくさんいることだろう。だからこそ、毎年4月になると大好きな水木しげるさんのこの言葉を思い出す。頑張ってばかりではよくない。本当の力とは、力みを抜く力ではないだろうか。けしからんという人もいるかもしれないが、どうも昔から「頑張れ」という励ましの言葉が好きではなかった。書家の相田みつおさんも「アノネ がんばらなくてもいいからさ 具体的に動くことだね」と表現している。簡単なことではないが、むやみに頑張るのではなく、肩の力を抜いて具体的に行動することが何事においても近道ではないかということだろう。

 ピアノの巨匠アルド・チッコリーニが、80歳を超えて豊田市コンサートホールでリサイタルを行った時、照明スタッフにステージの明かりはできるだけ暗くしてほしいと注文をしてきた。もし照明を当てるなら演奏する手先と鍵盤だけで構わないと。驚いてその理由を尋ねると、「僕は音楽の下僕だ。ただ作曲家が作った作品の指示通りに演奏するだけだから、僕に光が当たらなくてよい。」と。これでもかと自分を表現しようと頑張る人もいる一方で、なんと健気でカッコいいマエストロだろうか。

 音楽作品とは、すでに歴史的作曲家が残した完成されたものだ。それに向かって自分の色を出そうと頑張るのではなく、ただひたすらその作曲家の指示通りに弾く。それでも自ずから個性が滲み出てくる。あえて頑張らなくてもよいのだ。

 少年よ がんばる なかれ。丁寧に、具体的にいこうではないか。

(あかんちょう)

2021.03.26

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉗

桜の花は、散って地面に落ちた時に、紅が一番美しくなる

 これは、詩人の村瀬和子さんに教えていただいた言葉だ。

 無常にも七日で散る桜、命終わる最後の輝き。この季節、能「西行桜」を思い浮かべる。京都は嵯峨野、西行の庵室に咲き誇る老桜。心静かに一人で桜を愛でるはずが、 多くの花見客が来て騒がしい。これを桜のせいだと嘆く西行の夢枕に、老人の姿をした老桜の精が現れ、無心に咲く桜に罪はなく、思う人の心の中にこそあるのだと西行を諭す。恥じ入る西行と、それゆえ仏法に出遇えた老桜の精の心は一体となり、得難い友として夜遊の時を過ごす。 命をかけて最後の花を咲かせる老桜。やがて、夜明けとともに姿を消し、そこには、風に散った雪のような落花が残るばかりだった。

 散る花に美しさをみる日本人。それは、無常であるがゆえにかけがえのない命の輝きと滅びの美しさを見るからだろう。常に人間は、滅びと背中合わせに生きているのだ。

 この世阿弥の名曲を生涯最後の舞台に選ぶ能楽師も多い。その時、二度とふれることができない芸の極みを観ることになる。桜の花は、咲き誇った時ではなく、散って地面に落ちた時に、紅が一番美しくなる。

(あかんちょう)

2021.03.11

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉖

消えた「仰げば尊し」

 卒業式のシーズンである。

 昔は、卒業式といえば「仰げば尊し」であったが、近年では全国的にほとんど歌われなくなったようだ。我が家でも、3人の子どものうち、かつて2人目の高校の卒業式のみ聴くことができた。歌われなくなった理由を現役の学校の先生に訊いたことがある。理由は、歌詞が古くてわかりにくく、悲しい歌だからだとか。それで皆、歌詞がわかりやすくて明るい歌を歌うようになってきた。

 「今こそ別れめ」は「今こそ別れ目」ではなく、「今こそ別れよう」の意味だが、実に深い歌詞だ。この歌は、短い歌詞に師や友への想いが凝縮したとても尊い歌だと思うが、悲しい・暗いという理由だけで避けられ、軽快な曲に取って代わることこそ悲しくはないだろうか。実は、この歌は長調で基本的には明るい曲調なのである。また、歌詞についても、校歌は古かろうが難しかろうがそのままオリジナルを歌っているのだから、大きな矛盾をはらんでいる。

 師や友と別れる悲しい時に、気持ちを切り替えるのではなく、悲しみを体感して歌を歌うことが、心に深く感動が刻まれ、人生をより豊かなものにしてくれるのではないだろうか。

 人生の節目、旅立ちの日に、悲しい歌も大切だと思う。

(あかんちょう)

2021.02.27

あかんちょうのつぶやき「柳に風」㉕

漫才初体験

 毎年1・2月に行っている「大人のためのクラシック講座」は恐怖の企画で、演出として館長が登場させられる場面がある。今回のテーマは作曲家モーツァルトで、講師の加藤昌則さんと2人でモーツァルト親子に扮した漫才をやることになった。

 私は父親のレオポルト役で、息子に対して威厳をもった雰囲気を出さなければならない。ザルツブルクの田舎から魅力的な街ウィーンへ音楽の勉強に?行きたがる息子に対して、ウィーンは魅力的だが危険や誘惑も多いから、お前は行くな、ワシが代わりに偵察に行って来る(笑)という話。

 実は当時のウィーンは、ザルツブルクにはない遊園地や様々な国の料理が食べられるレストランと魅力的な酒場がたくさんあった。酒場には、トルコ風のエキゾティックでセクシーな格好をした美しい女性も出入りしており、そこで遊びたいというのが父レオポルトの本音。威厳と気まずさを演出して、台詞を覚えてテンポよく漫才をやるというハードルの高すぎる企画だ。漫才はいきなり講座の幕開けにあり、その後は講師の滑らかなトークと素敵な演奏が続くのだが、慣れない役割にヘトヘトになってしまった。

 この体験を通して、日頃ボーッと見ている漫才という大衆芸能がいかに難しく奥深いものであるかを実感した。考え方によっては一人の語り芸よりも難しい。相手があり、絶妙のテンポでたたみかけ、しかも笑いを取れなければならない。

 笑える漫才は、笑えないほど難しいのである。

(あかんちょう)